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逆転転生~侯爵令嬢は前世で私を追い詰めた男だった~  作者: あうまる


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第1話 破れた袖

 リュシアン・ヴァレントは人の心を動かすことに慣れていた。


 第一王子という肩書きは多くの者の目を曇らせる。けれど、彼が使っていたのは肩書きだけではない。


 寂しさを見せれば近づく相手がいる。特別扱いすれば揺れる相手がいる。弱みを見せた方がこちらのために動く相手もいる。


 そのやり方は王宮で学んだものではなかった。


 雨の匂い。腕を掴まれた痛み。高い場所の欄干。落ちる直前に見た男の顔。


 リュシアンはその記憶を王子の顔の奥にしまい込んでいた。


 今はこちらが選ぶ側。少なくともその夜までは。




 王宮の大広間には灯りがいくつも吊るされていた。


 春の終わりの夜会だ。庭園へ続く扉は開かれ、外から花の匂いと冷えた風が入ってくる。貴族たちは色とりどりの衣装で集まり、音楽隊は軽い舞曲を奏でていた。


 リュシアンは王妃の隣で来賓の挨拶を受けていた。


「今夜もご機嫌麗しく、リュシアン殿下」


「伯爵夫人も変わりないようで何よりだ」


「まあ、お上手ですこと」


 夫人は扇で口元を隠して笑った。


 その横に立つ若い令嬢は頬を赤くしている。リュシアンが視線を向けると彼女は目を伏せた。


 名前は覚えている。


 クラリッサ・モントレー。去年、兄の婚約話が不調に終わった伯爵家の娘だ。家中の雰囲気がやや悪い。そういう娘は優しい言葉に弱い。


 今夜声をかける必要はない。


 だが覚えておいて損はない。リュシアンは穏やかに笑い、次の来賓へ顔を向けた。


 こうした場で大事なのは誰にどれだけの意味を与えるかだった。長く話せば噂になる。短すぎれば軽んじたことになる。名を呼び、過去の会話を拾う。それだけで相手は自分が特別に記憶されていると感じる。


 リュシアンはそれを使い慣れていた。今は王子として使っている。何も問題はない。


 来賓の列が途切れた時、第二王子オスカーがそばへ来た。


「兄上は誰の名でもすぐに覚えておられるのですね」


「必要なことを覚えているだけだ」


「僕にはまだ難しそうです」


「いずれ慣れる」


 リュシアンはそう答え、次の来賓へ視線を戻した。


 その夜までは何も問題はないと思っていた。


 夜会が半ばを過ぎた頃王妃が言う。


「リュシアン。今夜はグレイヴ侯爵家の令嬢が来ています」


「グレイヴ侯爵家?」


「ええ。エレノア・グレイヴ。領地にいることが多かったので王宮の夜会ではあまり顔を見せていません」


「では挨拶した方がよさそうですね」


「そうしなさい。侯爵家は北方の要です」


 王妃の言葉はただの紹介ではない。


 王家としてグレイヴ家と良い関係を保て、という意味だ。リュシアンは頷き視線を広間へ流した。


 すぐに見つかった。壁際にシルバーグレーのドレスをまとった令嬢が立っている。


 派手ではない。周囲の令嬢たちのように宝石で光を集めようともしていない。けれど、目立った。背筋が伸び、表情に無駄がない。年配の夫人の話を聞く時も若い令嬢に話しかけられる時も同じ調子で頷いている。


 綺麗というより隙が少ない令嬢だった。


 リュシアンは悪くない展開だと思った。


 あの手の相手は崩すのに時間がかかる。最初から甘い言葉を投げても響かない。まずは侯爵家への敬意を示し、次に彼女自身の管理能力を褒める。容姿には触れすぎない。周囲が容姿ばかりを見る相手ほどそれ以外を見られると記憶する。


 そんなことを考えながらリュシアンは近づいた。


「エレノア・グレイヴ嬢」


 名前を呼ぶと彼女は振り返った。目が合った瞬間、リュシアンの足が止まった。遠のく広間の音。


 令嬢の顔を見ているはずなのに、押し込めていた記憶が奥から浮かび上がる。


 肌は白く、睫毛は長い。唇の形も顎の線もあの男とは違う。違うはずだった。


 それでも、リュシアンの中で影が重なった。


 顔が同じなのではない。


 目の向け方。こちらの言葉を待つ間。逃げず、媚びず、少し外側から見るような立ち方。


 それらが雨の中で自分の前に立った男を思い出させた。


 濡れた石。欄干。腕を掴まれた感覚。落ちる直前に見た顔。


 あの男の影が令嬢の灰色の瞳の奥に沈んだ気がした。


 息が乱れ、リュシアンは一瞬だけあの夜へ引き戻された。あの男がいなければ自分は終わらなかった。終わるはずがなかった。


 相手が騒ごうと何を持ち出そうと、自分は切り抜けられた。泣く必要はない。泣く前の顔を作るだけでよかった。相手が悪いと思わせる言葉もいくらでも持っていた。


 なのにあの男だけは退かなかった。


 こちらの言葉を信じず、庇われても揺れず、誰が何をしたかを分けようとした。


 面倒な男だった。正しさを武器にして逃げ道を潰す男だった。


 その影が今、令嬢の中にある。リュシアンはそう思った。


「殿下」


 エレノアが膝を折る。


「お声がけいただき、光栄に存じます」


 声も記憶の中のものとは違っていた。


 だが落ち着きすぎている。


 リュシアンは返事が遅れた。


「……グレイヴ嬢。王宮の夜会では初めて会うな」


「はい。領地にいることが多く、王都の社交には不慣れでございます」


「そうは見えない」


「そう見えるよう努めております」


 短い返しだった。媚びも怯えもなく、リュシアンの手の中に入ってこない。


 それだけであの夜の記憶がさらに濃くなる。あの男もそうだった。


 こちらの言葉に入り込んでこなかった。弱さを見せても罪悪感を刺激しても一歩外から見ていた。


 こちらの作った場に乗らない相手。


 それがどれほど邪魔か、リュシアンはよく知っていた。


「一曲、よろしいかな」


 リュシアンは言った。


 自分の声は思ったより自然だ。王子としての習慣が体を動かしている。笑みも礼も手を差し出す角度も崩れていない。


 エレノアは短い間だけリュシアンを見る。


 その間が気になった。まるでこちらの動揺を確認しているようだった。


「喜んで」


 彼女は手を重ねた。細い指先から静かな温もりが伝わった。


 それでも、リュシアンは腕を掴まれた感覚を思い出した。


 音楽が始まる。


 リュシアンはエレノアを伴って踊り出した。


 彼女の動きは正確だった。社交に不慣れだと言ったが足取りは乱れない。相手に身を預けすぎず、かといって反発もしない。距離の取り方がうまい。リュシアンの誘導に従いながら、主導権を完全には渡さない。


「領地ではどのように過ごしていた」


「父の仕事を少し見ておりました。領地の帳簿や、冬支度の管理などです」


「若い令嬢には珍しいな」


「そうでしょうか。北方では知らずに済むことが少ないので」


 北方の要、グレイヴ侯爵家。王家にとって必要な家だ。


 そんな情報が頭に浮かぶ一方でリュシアンの意識はエレノアから離れなかった。


 似ている。だが、違う。


 顔ではない。雰囲気だ。こちらの言葉にすぐ乗らないところ。必要以上に目を伏せないところ。


 それでも、角度によってはあの男を思い出させる気がした。


 あの男本人なのか。それともたまたま似ているだけか。


 そんなことがあるはずはない。


 そう思うのに否定しきれない。リュシアン自身が説明のつかない記憶を抱えてここに立っている。


 リュシアンの手にわずかに力が入った。エレノアの視線がそこへ落ちた。


「殿下?」


 声をかけられ、リュシアンはすぐに力を抜いた。


「すまない。考えごとをしていた」


「私との踊りが退屈でしたか」


「まさか」


 普段ならここで軽く笑わせる言葉を返す。


 だが、うまく出てこなかった。エレノアは微笑んだ。


 薄い笑みだった。


 それが記憶の中の男とはまったく違う表情のはずなのに、リュシアンには責められているように見えた。


 曲が終わる直前、エレノアの袖がリュシアンの袖口に触れた。ほんのわずかな接触だった。


 次の瞬間、布の裂ける音。エレノアが短く息を呑み、周囲の数人が振り返る。リュシアンは反射的に手を離す。


 エレノアの右袖が肩口から肘にかけて裂けている。肌が大きく見えたわけではない。だが、夜会の場で令嬢の袖が裂けるには十分すぎる。


「エレノア様!」


 近くの令嬢が声を上げた。


 音楽が乱れ視線が集まる。王子と踊っていた令嬢の袖が破れたのだ。


 それだけで場は勝手に意味を持つ。


 リュシアンは裂けた袖を見た。


 布の裂け方、悲鳴の短さ、周囲が気づくまでの間。そして、エレノアが次に何を言うか。


 知っている。これは知っている。


 かつて、自分が使った手だった。


 袖をどこかへ軽く引っかけ、相手が触れた瞬間に裂けたように見せる。


 強く破られたほどではない。だが、周囲にはそう見える。


 相手が否定すればするほどそこまで慌てるのはなぜかと思われる。


 そして最後に庇う。


 庇うことで相手をさらに疑わせる。


 リュシアンは喉の奥が冷えるような感覚を覚えた。


 エレノアは裂けた袖を押さえた。


 顔を伏せる。泣かない。泣く直前の顔も作らない。


 ただ呼吸を整えた。


「申し訳ございません」


 先に謝った。周囲がざわつく中、リュシアンは動けなかった。


 エレノアは顔を上げはっきりと言った。


「殿下がなさったのではございません。私がどこかへひっかけてしまったのかもしれません」


 近くの令嬢が扇を止めた。


 楽の音だけが続き、数人の視線がリュシアンへ向いた。


 庇った。やはり。


 リュシアンはどこか遠い場所で聞いた自分の声を思い出した気がした。


 違うのだ。相手が悪いわけではなく、自分が勝手に勘違いしただけだ。そう言えば周囲は相手を見る。庇われた側を見る。


 本当に何もしていないならなぜそこまで庇うのか、と。


 リュシアンはようやく口を開いた。


「怪我は」


「ございません」


 エレノアは短く答えた。


「ご心配をおかけしました」


 王妃付きの侍女が近づき、エレノアを控え室へ案内しようとする。


 エレノアはリュシアンへ礼をした。


 袖を押さえたままでも礼の形は崩れない。


 その顔を見た瞬間、リュシアンは確信に近いものを覚えた。


 偶然ではない。この令嬢はかつて自分が使ったやり方を知っている。


 いや、知っているどころではない。


 あの男なのか。あの男が女の姿で自分の前に来たのか。


 エレノアは侍女に伴われ、広間を離れていった。


 周囲の声が戻る。


「殿下が?」


「いえ、エレノア様はご自分でと」


「でも袖が」


「王子殿下がそんなことをなさるはずは」


「グレイヴ侯爵家の令嬢でしょう」


 囁きはすでに始まっていた。


 リュシアンはその中心に立っていた。かつてのリュシアンは何度もこの輪の外に立っていた。


 周囲の視線が相手へ向くのを見ていた。相手が否定する前に自分から庇う。そうすれば場は勝手に進む。


 今は逆だ。視線は自分へ向いている。王子だから誰も正面から疑わないが疑いは消えない。


 リュシアンは裂けた袖の音を思い出した。


 薄い布が破れる音。


 それは忘れたはずの場所から届いた合図のようだった。


 あの男が戻ってきた。そうでなければこんなやり方を知っているはずがない。


 リュシアンは広間の灯りの下で笑みを保った。王子として誰にも動揺を見せないように。


 だが手袋の中の指には力が入っていた。


 雨の中で自分を終わらせた男。


 その影が今、夜会場に立っている。


 リュシアンにはもうそうとしか思えなかった。

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