第46話 アリスはぶっこんでくる
振り向いても人の姿はなかった。あるのは本棚だけ。いつも通りで、あの時と同じ。
「アリス」
『久しぶり。色々あったみたいだけど、なんとか生き残れたんだね。明日があるかはわからないけれど』
「まあね。ちょうどよかった、また転送してよ。お願い、それだけしてくれたらめっちゃ感謝する」
箒を脇に抱えて、両手を合わせた。くすっ、とそよ風のような笑い声が聞こえてきた。
『だあめ、そういうのは面白くないから。でも、助けてあげてもいいよ、別の形でね』
くすくす、くすくすとアリスは笑い続けていた。
窓の外から大勢の人の声が聞こえるようになっていた。まだ遠い、けど、ちょっとずつ近づいている。足音がたくさんあって、きっとこっちを目指していた。
「どうせ条件があるんでしょ。言って、即決するから、早く」
『魔法を返してくれたら、助けてあげる』
「またそれ? 返さないって言ったじゃん、悪いけど無理、行くね」
箒にまたがって、窓に向き直った。鍵を開けて、浮力を――アリスは言った。
『あなただけのことじゃないよ。家族や芽衣ちゃんと楽しく笑って暮らせるようにしてあげる』
窓からは、こちらに向かってくる警備員の頭が見えていた。隊列を作って、旧校舎に突入しようとしているのがわかった。それからぐるっと校舎を取り囲むように広がっている。
場所バレたっぽい。
行かなきゃ、早く行かなきゃなんだけど、足が地面に吸い付いて動かない。ざわざわと胸の内側が、少しだけ荒れていた。
「早く教えて、でないとここがめちゃくちゃになっちゃう」
頭の中の暗闇に、にっ、っと歪むアリスの口元が見えた。三日月みたいに、尖っていた。
『この世界から魔法を消しちゃうの。かわいそうな子は一人もいなくなり、普通の人間だけが残る。はるか、あなたもそのうちに一人になって、こんな学校も消えてなくなる』
「まさか、そんなこと」
ぐらりと視界が斜めを向いた。首周りが熱を持って、じわじわ内側に広がった。
酸素が重くて、息がしにくくなった。汗がべっとり染み出してくる。なに言ってんだろ、この子。スケールデカすぎ、そんな話なかったじゃん、これまで。
けど、この子は、この子だけはなにか違う。だとしたら。
「……冗談じゃないの?」
『もちろん。ものの一秒で魔法なんて消えてなくなる、あなたが頷けばね』
魔法が消える。そんなの考えたこともなかった。わたしは普通の女の子になって、芽衣ちゃんはもう苦しまなくてよくなる。先輩だって、他のみんなだって、普通に生きられる。
消える、消える、世界から消える。わたしはなにもできなくなって、けど、狙われることもなくなる。無理に魔女なんてやらなくてよくなる、そもそも魔女なんて、もう。
全身が痺れてる。胃が重い、言葉が出てこない。
『即決するんじゃなかったの?』
「待って、ちょっと、ちょっとだけ考えさせて」
『いいけど、殺されないうちにね。死んだら、無理だから』
重いもの、投げられすぎ。なにそれ、わたしだけの話じゃない。できないなんて思わない、きっとやる、この子は本当にそれをやっちゃう。
だから決められない、簡単に決められない、簡単に、簡単には……なんでだ。
なんで、迷う必要があるんだ。
アリスが消してくれるなら、それで全部解決するじゃん。
そうだよ、迷う必要なんて、ない。ないんだ。
伏せていた顔が、上がった。窓ガラスに、箒を持つわたしが映っていた。
「ねえ、アリス。あなたはなんでわたしにそんなことを選ばせるの、どうして、わたしを選んだの」
『別に、魔女になりたいって子なら誰でもよかった。でも、いないんだよねえ、あんまり』
「そういうこと。じゃあ偶然は半分で、後の半分は最初っから狙われてた分だ」
アリスはなにも言わなかった。頭の中の色んな場所に現れてくすくすと笑っていた。
「ねえ、さっきの話、保留にできる? 一年後とか、地球が終わる日までとか」
『無理。ここで決める、そのつもりで聞いたの』
「そっかぁ、じゃあ」
お腹の底に溜まっていた空気を吐き出した。手をグーにして、振り向いた。
一緒に空を飛ぼうって約束、忘れてないよ、芽衣ちゃん。
「その話無し、他の人にも言っちゃダメだよ。わたしは自分でなんとかする、まだ、ちゃんと道を見つけてない」
『そう。言うと思った』
「正義の魔女はしばらく引退できないんだ、ごめんね」
思わず、笑顔になった。力が抜けて、笑いが溢れてきた。
誰もいないところを見て、一人でひーひー言ってる。馬鹿だなあ、ほんとに馬鹿だ、迷惑かけてばっかりの馬鹿だ。
でも。
できっこないことない、なんだってやってやる。
「っし、じゃ行くから。ここに戻ってくるとしたら、夢が叶った後で。それまでさよなら」
『うん、行ってらっしゃい。あ、旅立つはるかちゃんに、一つだけ耳寄り情報、実はね』
アリスは溜めた。もったいぶって、しゃらららっと演出して、それから言った。
『とんでもない攻撃がやってくるから、早く逃げないと死んじゃうよ』
「え?」
なに言ってんだこの子――そう思ったその瞬間に、全身が粟立った。途方もない圧迫感が背中を襲って、頭に声が響いた。
――裏切りには制裁を。




