第36話 師匠の謝罪
お店の一番奥、テーブル席に予約済みの札が置かれていて、わたしと師匠は対面して座った。焼けたチーズの匂いがほんのりと漂い、耳にはしっとりしたジャズミュージックが聞こえていた。
師匠がコーヒーを二つ注文していた。店員さんが去ってからわたしは聞いた。
「最初に確認なんですけど、師匠は本当にわたしの知ってる師匠なんですね」
「もちろんだよ、はるか。聖夜のことは、今でも昨日のように思い出せる」
「そうですか、ずっと会いたいと思っていました」
「うん、僕もだよ」
わたしを見つめて、師匠は微笑んだ。
すぐにコーヒーがやってきた。一口飲んでから、師匠は言った。
「君は、今の社会と制度に不満があるんだね」
「そう聞かれたら、はいって言います。別に、それを変えるために魔女やってるわけでもありませんけど……自由に魔法が使えないのは嫌です」
師匠は言った。
「同感だ。歪んだ仕組みは是正されなければならない、僕もそのように考えている。とはいえ、長い間袋小路のような状態で、突破口は見えなかったのだが……突然目の前に君が現れた」
「わたしが……でも最初は捕まえようとしてたじゃないですか」
「もちろん、それが仕事だからね。けれどね、気高き意志に触れて反省させられたんだ、長い間自分は一体なにをしていたんだ、とね。だから話がしたかった、敵対ではなく、師弟に戻りたかった」
「いまさら、なんてこと言うんですか、東京ではあんなに酷いことしてきたのに、急に態度を変えたりなんて、ばればれですよ、そういうのやめてください」
師匠の胸あたりを見つめた。ゆっくり鼻で息をして、早い呼吸を整えた。
「……ほんと、やめてください」
「公に生きる人間には、相応の振る舞いがある。仮面を被ることも、周囲の期待に応えることも、立場を守るには必要なことなんだ。本音など、プライベートな空間でしか出せないものだよ」
目を上げて、師匠の顔を見た。軽薄なところのない、引き締まった表情をしていた。
「今が本音の場だって、そう言いたいんですか」
「言葉でなにを言おうと、日頃の積み重ねが君から信用を奪うと理解している。けれども、前提を置いておきたかった。そう、少しでも君との距離が埋められるように」
師匠は膝に両手を置いた。背筋を立てて、テーブルにおでこが付くくらい頭を下げた。
「すまなかった。真っ先にこうするべきだったのだが、保身が謝罪を遅らせた、できることなら許してもらいたい」
「な、なんで謝るんですか、東京でのことですか、わたしを攻撃したことを、後悔してる、反省してるってそうなんですか」
「違うよ」
「じゃあ、なんで頭なんて、謝罪なんて」
顔は上がらなかった。誰かの目なんて気にせずに、師匠は頭を下げ続けていた。表情は見えない、わたしの胸よりも低いところに隠れているから。
落ち着いた声で、師匠は言った。
「これまでの全てだ。魔法使いの代表者であるはずの僕は同胞の抑圧に加担してきた、その事実に対して謝罪しなければならない。力なき者たちを代表する君に」
その声は震えていた。何秒経っても、何十秒経っても顔は上がらなかった。わたしもなにも言えなくて、お店の雑踏が耳によく聞こえた。
お客さん達の声の中には、わたしたちの様子を気にするものも混ざっていた。なにあれ、だとか、様子がおかしいだとか、変だ、とか。その声は師匠にも聞こえてるはずなのに、一向に姿勢を戻そうとはしなかった。
「あ、あの、師匠、顔を上げてください。目立っちゃってますよ、こんなところで、そんなずっとなんて、もうわかりましたから」
「僕を、許してくれるのか」
「……簡単には言えません。だけど、ちゃんと話はしたくなりました。お願いです、そういうのはもうなしにしましょう、わたし謝罪がほしくてやってるわけじゃない」
「そうか、トワイライト・ウィッチとは、こんな僕にも慈悲を与えてくれる存在なんだね。ありがとう、お言葉に甘えさせてもらうよ」
そう言って、師匠はようやく顔を上げてくれた。
ふぅっと軽く息を吐いた。胸のつっかえが取れて、重さがなくなった。
「言われてもみれば、大胆なことをしすぎた。真面目な会談だというのに……いささか恥ずかしいね」
師匠は指で頬をかいた。ちらちら周りを見て、少しだけ肩を縮めた。
「あはは、なんか自分の方が大人になっちゃったかもって思いましたよ」
「夢を見るだけだった少女が、ずいぶんと言うようになった。いや、根っこは変わっていないのかな、自分ではどう思うんだい?」
「えー、冗談ですよ、冗談、本当に思ってるわけじゃないです。わたしってば案外かっこつけたがりだし、恥ずかしがらずに謝れる人の方が大人だって……ぁ、たんま、待ったです、世間話をしにきたんじゃないんですから、もう」
カップを手にして、口に運んだ、また早くなっていた息を、今度はコーヒーを流し込んで整えた。ふぅ、やばいやばい、なにこの雰囲気、これ違うし、喧嘩しにきたんだし。
手が止まって、カップに口を埋めるみたいになった。鼻先が、ちょっぴり縁に触れた。
コーヒー、美味しい。温度もちょうどいい。苦すぎなくて、どんどん飲める。どんどん、どんどん。
「カップはそんなにがっつくものではないよ。心は成熟しても、優雅なレディにはまだ遠いのかもしれないね」
師匠は、穏やかに笑っていた。
「いいんです、おばあちゃんになってもキラキラしてるのが目標ですから、ふふ」
潤った喉は、ついつい笑い声を出していた。
わたしがカップを置くと、師匠は言った。
「さて、君の言うとおりだ。楽しい話をしに来たのではなく、今日は交渉ごとだった。本題に入っても構わないかい? 名残惜しいものだけれど」
「もちろんです。わたしを認めるとかってあの話、ちゃんと聞かせてください」
「ああ。単刀直入に言えば、君に認定特異能力者……すなわち認定魔女のモデルケースになってほしいということだ」




