第35話 師匠の耳には鈴がない
時間がゆっくりになった。裕香の声が溶けて、脳に入り込んでくる。
『前からそうじゃないかって、やばっ、えと、手短に言うけど、姉ちゃんのこと責めてるわけじゃなくて、むしろ応援して、やめっ、ママ、邪魔しない――』
受話器が落下して、床に衝突する音が響いた。お父さんらしき声が、叱責するような口調でなにかを言っている。裕香は泣き叫ぶように反論しているのがわかったが、混沌としてなにが起きているのか見えてこない。
ゆったりとした女性の息遣いが聞こえた。ちょうど日が落ちて、太陽が隠れるのが見えた。
『やあ、ご家族に集まってもらっていたのだが、妹さんはいても立ってもいられなかったらしい。携帯電話を預からせてもらったのは少々やりすぎだったかもしれないね』
貧血のようになって、一瞬意識が乱れる。
でも、すぐに理解する。
電話の相手は師匠だ。
「師匠、師匠ですね、うちにいるんですね、家族に、裕香になにをしたんですか、わたしのことをバラして、まって、やめてください、なんで、捕まえるのはわたしだけに、」
『なにもしていないさ。ただ身元が特定できたものでね、まずはご両親に報告に行ったんだ。お父様も、お母様も、たいへん悲しまれている』
「人質にするつもりなんですか。わたしが抵抗しないように」
少し間があく。師匠は『そうじゃない』と言って小さく息を吐いた。
『実はね、君を認めることにしたんだ』
泣き出す寸前のような顔で芽衣ちゃんがわたしを見上げていて、安心させようとしたのに、頬がひくついて笑顔になれなかった。
次の日曜日の外出申請をしてみたところ、一日も待たずに許可が下りた。『たまには光の当たる場所で会おうじゃないか』という師匠の言葉通りに。
裕香は『無事だ』ってメッセージは送ってくれたけど、電話もメールも許可されたのはその一回だけで、約束を守らないと家族までも罪に問われる可能性があると言っていた。
悶々と過ごして、そして日曜日。一年半ぶりに歩いて校門を出ると、少し先の舗装路にボディも窓ガラスも黒塗りのいかにもな高級車が止まっていた。
ドアが開いたので、乗り込んでつぶやく。脅されたって下手に出たら負けだ。
「へんなところ連れて行ったら通報するからね」
ざっくり二時間経って降ろされたのは、どこともしれない街中だった。
車通りの多い大通りに面していて、太陽光に照らされた歩道には夏の装いをした大人たちが行き交っている。
場所を特定するよりもなによりも、白のハットを被り胸の前で手を振るその人が目に入った。柔らかな素材のノースリーブのカットソー、深いネイビーのくるぶし丈のフレアスカート、フレームの細いメガネをかけていて、ハイブランドらしき革のバッグを肩から下げている。
「やあよく来てくれたね。無視されたらどうしようかと少しだけ不安だったんだ。おや、制服で来たのか、いやいや結構、学生らしくてそれはそれでかわいらしいね」
この声、この喋り方、この人は師匠だ。
普段とイメージが一八〇度も違う。テレビとも空で会ったときとも。なんの狙いなんだろう。好印象を与えてわたしを惑わすつもりだろうか。
「そんな怖い顔をしてどうしたんだい? ああ、もしかして場違いだと思っているのかな、気にしなくてもいい、ここはカジュアルなレストランだからね」
師匠は背後のお店を紹介するように身体を除けた。軒先にテラス席のあるイタリアンレストランで、入店待ちの行列ができている。
明るい雰囲気のお店で、自然光を取り入れた店内は女性客でごったがえしていた。
わたしがなにも言わないでいると、師匠は耳の下に指を置いた。
「ただし、それは外してもらおうか。他の客が驚いてしまうからね」
手に力が入る。落ち着けわたしと胸の中で言う。
「遠慮しておきます、規則ですから。それとも代わりにつけてみますか? 少しはわたしたちの気持ちがわかるかもしれませんよ」
師匠は一瞬目を見開いて、すぐに笑顔に戻った。
「いや、僕も遠慮しておこう。そういうことなら仕方ない。君の意思を尊重しようじゃないか」
その場で半周して、師匠はお店側に足を向けた。
「さあおいで、君のために予約しておいたんだ」
顔だけで振り向いた師匠とは目を合わせず、横に並んで店内へと足を踏み入れた。




