第18話 誰かの夢、わたしの夢
雑居ビルのような、おそらくは単身者向けの十階建てのマンションの上層から火の手が上がっていた。鳴り止まぬサイレン。ランプの赤い光がチカチカと明滅する。
中から逃げてきたと思われる部屋着姿の人々、野次馬の近隣住民。何台も連なる消防車と救急車。ホースはヘビのように地面を這いずっている。消防隊員がなにやらと指示を出していたりして、現場は混乱と喧騒に包まれていた。
人々の背後を取るように、エントランス前駐車場の後方に降下する。
亜里朱ちゃんを下ろしてから、野次馬の一人に声をかけた。
「む、不審な少女、仮面なんてして怪しいぞ」
「怪しいのは自覚してるから、それより話を聞かせて。逃げ遅れた人はいない?」
その男性はすっと手を上階に向けた。
「いや、見てみなさい、最上階だ。ベランダで叫んでいるだろう。消防もなかなか手が出せないとかで、困ってるらしい……む、むむ?」
話を聞き終える前に箒にまたがって、空に飛び出した。「人が飛んでんぞ」「なにあれ!?」というような声が一部から聞こえてきてガヤが大きくなった。結構、こういうときに目立つのは望んでるもんね。
一瞬で目的地へと達する。
十階のベランダでお兄さんが地上に向かって「火を消してくれー」と必死に叫んでいた。窓ガラスの向こうは黒煙が充満し、轟々と炎が燃え盛っていた。熱気がムンムン伝わってきて、鼻先に汗が滲んだ。
刺激しないようにそっと近づいて、ベランダの縁から頭だけを出した。
「誰か、早く来てくれ、消してくれ、消してくれぇ!」
「そんなあなたのために、トワイライト・ウィッチ只今参上。火は消さないけど、助けに来ましたよお兄さん」
「ひっ、な、なんだおまっ、浮いて」
「そういうのは後で。もう安心して、ちゃんと地上まで送り届けるから。ほら乗って」
すーっと上昇していってお兄さんの手を掴んだ。
引っ張り込もうとすると、逆に引っ張られた。
「うわっ、あう、っとと、って危ないから落ち着いて!」
「だ、だめだ、まだ残ってるんだ、置いては行けない!」
お兄さんは顔中汗塗れで鼻息を荒くしていた。鬼気迫るという表情で、さらに強く腕を引っ張ってきた。この反応、ちょっとヤバいかも。
「なに、もしかして中に誰かいるの!? お子さんとか、ねえ、落ち着いて、話を聞かせて、おち、落ち着いて、ほら、ほらってば!?」
「ち、違う、そうじゃなくて」
「そうじゃない!? じゃあなにがあるのっての!?」
「ギ、ギターが、相棒がまだ中に残ってるんだよおお」
お兄さんは悲壮感たっぷりに、叫んだ。
窓の奥の火勢が増して、逆にこっちの火勢は衰えた。額がヒリヒリ、髪先がチリチリ、熱で空間が歪んでいるように見える。背中が汗ばんできて、グローブの中も蒸れている。
お兄さんの身体を魔力で浮かび上がらせて「う、わ、わ、うわあああ」無理やり箒の後ろに乗っけた。暴れないようにそのまま身体を固定する。
「はい、下に参りまーす」
ゆっくりと降下していく。
一件落着のはずなんだけど、お兄さんは暗い声で言う。
「お願いだ……戻してくれ……あいつは俺の人生なんだ……プロになるんだよ……あいつと一緒に……」
「残念だけど、こうなっちゃったんだから新しいの買うしかないよ」
「勝手なことを言うな! なんだお前は、なんなんだ……」
「きゃっ、もう、急に叫ばないで。わたしは魔女、さっきも言った」
お兄さんは乾いたような笑い声を出した。
「魔女だって……? へ、へへ、そうか、魔法使いってやつか、どうりで……」
その先は口にせずに、お兄さんはつぐんだ。勝手な想像だけど、人の心がわからない、とでも言おうとしたのかと思った。勝手な想像だけど。
相棒、人生、か。よっぽど大切なものだったんだ。でも命には変えられないでしょ? なんてことは言わないほうがいいかも。命よりも大切だなんて言われちゃったら、困る。
嗚咽するような音が、風切音に混じって耳に届けられた。
一度、頭上を見た。目を細める。あそこに取り残されてるのは、もしかしたらただの物じゃないのかも。
ともかく一旦送り届けなきゃ。
地上に降りても、お兄さんは膝をついたまま立てないでいた。
お兄さんは駆け寄ってきた消防隊員の足元に、すがりついた。
「あのストラトは、親父から貰ったものなんだよ……認めてもらったんだ……俺の、俺の夢なんだよ、火、火を消してくれよ……頼む……頼むから……」
その目には、涙。大の大人が、男の人が、ただ一本のギターのために泣いていた。
「今すぐには……」
と消防隊員は言った。
「金じゃねえんだ……買えねえんだよ……あいつは俺の人生なんだ……」
見上げれば、フロア全体が未だ燃え盛っていた。消火作業はまだ始まっていない。
わたしなら、もしかしたらギターを取ってこれるかもしれない。でも、他人の大切なものを守るためだけに、あの火の中に飛び込んでいけっていうの。いくら魔法が使えたって、無事に帰れるとは限らない。ギターだって、もう燃えてしまってるかもしれない。
命が守れたらそれで十分じゃないか。そう思う。けど、あの人は夢を失おうとしている。
それってどういうことだ。それってわたしにとって一番受け入れがたいことじゃないか。
「なんだよあれ通報したほうがよくねえか」
「あの変な人空飛んでたよね、ヤバくない?」
「おい君、少し話を聞かせてもらえないか。まさか――」
そんなノイズも。
作業音も、ガヤも遠くなり、むせび泣く声だけが耳に残る。
固めた拳に力が入る。胸が熱くなる。部屋から目が離せない。一秒過ぎるたびになにか大切なものが摩耗していくような気がする。
ブラウスの裾が引っ張られた。
見れば亜里朱ちゃんがいて、小さな笑みを浮かべていた。
「困っている人がいますよ」
そうだ。わたしはそのためにいる。
困っている人を助けるためにいる。
こんなところでなにかが終わっていくのを眺めるためじゃない。
わたしは、魔法で人を幸せにするためにここにいる。
「お兄さん! そのギターはどこに!?」
「え……あ、と……え」
「いいから! 早く!」
「ろ、廊下、運ぼうとして、爆発があって」
「おーけい、戻ったらチップ代わりにお兄さんの演奏聞かせてよね!」
お兄さんと亜里朱ちゃんをそれぞれ一瞥して、箒にまたがった。
炎の中にいるのはただの物じゃない。誰かの人生、誰かの夢そのもの。自分には無関係だから無視するだなんてそんなの間違ってる。
だから行くよ。
今助けてあげるから待っててね。
地面を蹴って、一気に空へ飛び出した。
「勝手なことをするんじゃない! 火災だけじゃない二次災害だって、あ、こ、こら」
叫ぶ消防隊員の背中によじ登って、亜里朱ちゃんが手を振っていた。
「火災現場では予期せぬことが起きちゃうらしいので、気を抜かずお気を付けておねーさーん!」
チラッと一瞬だけ振り向いて、返事の代わりに親指を立てた。




