外の気配
森は、そこにあった。
だが、それ以上に踏み込めない“何か”があった。
近づいているはずなのに、その距離だけが縮まらない。
***
王都から派遣された騎士団は、森の外縁で足を止めていた。
そこは、ただの森の入口に過ぎないはずだった。木々が並び、影が落ち、風が葉を揺らしている。どこにでもある景色だ。異質なものは、何ひとつ見当たらない。
それでも、誰も一歩を踏み出そうとしなかった。
足が止まる。理由はわからない。なのに、進むべきではないという感覚だけが残る。
森は、ただそこにあるだけではない。
まるで──こちらを拒んでいるようだった。
「……報告の通り、か」
低く呟いたのは、隊の前方に立つ騎士だった。その言葉に、誰も返さない。否定する理由はなかった。
王都に届いた報告は、簡潔だった。
王子は生存している。森の中にいる。
だが──帰還を拒否した。
理由は、報告されていない。
それだけだった。
詳細は少ない。けれど、その内容だけで十分だった。
「王子は、この中にいる」
別の騎士が、森の奥を見ながら言う。視線は向けている。けれど、その先を見ている感覚がない。
「……ああ」
短い返答。それ以上、言葉は続かない。
森は、変わらずそこにある。近づけば入れる距離だ。数歩も進めば、木々の間に踏み込める。
そのはずなのに。
(……遠い)
誰かが、そう感じていた。口には出さない。だが、その感覚だけは共有されている。
距離は変わらない。けれど、近づいている実感がない。
「……妙だな」
小さく呟く声があった。
「何がだ」
隣の騎士が問う。
「いや……」
言葉が、そこで止まる。
説明しようとしたはずだった。何が妙なのか、分かっているはずだった。
けれど。
「……分からん」
結局、それしか出てこなかった。
「……そうか」
問い返した騎士も、それ以上は追わない。
分からない。だが、おかしい。
その感覚だけが、曖昧なまま残る。
隊の中に、ひとりの男がいた。
他の騎士たちと同じ装備を身につけ、同じように森を見ている。だが、その視線だけがわずかに鋭かった。
男──カイルは、森の境界をじっと見据えていた。
(……境界が、曖昧だ)
確かに、そこに線があるように見える。森と外を分ける境界。
だが、その位置が定まらない。
一歩踏み出せば越えられるはずの距離。それなのに、その“どこからが内側なのか”が、はっきりしない。
(……近い。いや、遠い)
認識が、噛み合わない。
見えている。距離も分かる。
なのに──判断だけが揺れる。
カイルは、わずかに目を細めた。
「隊長」
静かに呼びかければ、前方の騎士が振り返る。
「何だ」
「進みますか」
短い問いだった。
隊長は森を一度見てから答える。
「命令は出ている」
それは、肯定だった。
けれど、誰も動かない。
命令はある。進むべき理由もある。
それなのに──足が出ない。
(……なぜだ)
カイルは、自分の足元に視線を落とす。
動かそうと思えば、動く。筋肉も問題ない。負傷もない。
なのに、その動作だけが遅れる。
一歩が、出ない。
出せるはずなのに。
その一歩だけが、どこか遠い。
「……行くぞ」
隊長の声が落ちる。
それは命令だった。明確な指示。従うべきもの。
カイルは、息を一つ吐く。
(……考えるな)
理由を探そうとするな。理解しようとするな。
ただ、動け。
そう判断し、足に力を込めて一歩を踏み出す。
──踏み出した、はずだった。
その瞬間。
何かが、わずかにずれた。
空気が変わる。
音が、ほんのわずかに遅れて届く。足音もまた、遅れて返ってくる。自分の動きと一致しない。
(……?)
違和感が走る。
だが、それを認識する前に、次の一歩が自然に出ていた。
振り返ると、他の騎士たちも続いている。
誰も、何も言わない。
だが、全員が同じものを感じていた。
言葉にはできない。
けれど──確かに、何かが違う。
森の中は、外と変わらないように見える。木々があり、地面があり、光が差し込んでいる。
それでも。
(……静かすぎる)
音はある。葉も揺れている。風も通っている。
なのに、そのすべてがどこか噛み合っていない。
音が、少し遅れて届く。
見えているはずなのに、焦点がわずかに合わない。視線だけが、どこか別の場所へ滑る。
中心だけが、わずかに歪んでいるような感覚。
(……なんだ、これは)
理解しようとする。
だが、思考が続かない。
掴みかけた感覚が、そのまま抜け落ちる。
「……進め」
隊長の声が響く。
その声だけが、やけにはっきりと聞こえた。
カイルは前を向く。
森の奥は、変わらずそこにある。
けれど、その奥行きが掴めない。
近いのか、遠いのか。
分かるはずなのに、分からない。
(……ここは)
言葉にしかけて、止まる。
何かが、引っかかる。
だが、それが何なのかは分からない。
ただ一つ。
“入ってはいけない場所だ”。
理由は分からない。
だが、その確信だけは揺らがない。
それでも、足は止まらない。
命令がある。進む理由がある。
そして何より──すでに、一歩を踏み込んでしまっている。
戻るという選択肢は、どこにもなかった。
森は、何も変わらずそこにある。
だが、その内側に入った瞬間。
何かが、確実に変わっていた。
それが何なのかは、分からない。
だが──戻れない、という感覚だけが残った。




