表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/24

名前

 あれから、リオと男は騎士たちと共に森の外近くまで来ていた。

 一度王都へ戻る騎士たちを、「また襲われないように」とリオが提案したからだ。男の許可なく口走ったその言葉に、彼はなんの反応も示さない。ただ、それを受け止めていた。


 森の外縁で、騎士たちは足を止めていた。


 それ以上は、踏み込まない。

 いや——踏み込めないのかもしれない。


 森の中と外とで、空気が違う。


 見えない境界が、確かにそこにはあった。


「……では」


 一人の兵が、短く頭を下げる。それに釣られて、ほかの騎士たちも皆短く頭を下げた。


 それ以上の言葉はない。


 本来であれば、連れ戻すべきだった。

 騎士として、王子を連れ戻す義務があった。王子がいるかもしれないと一縷の望みをかけて、ここへ来たのだから。


 それでも——踏み込めなかった。


 その理由を、誰も言葉にしない。


 ただ、騎士たちは理解していた。

 ここから先は、自分たちの領域ではないのだと。


「……ご無事で」


 それだけを残して、彼らは森を離れていく。


 足音が、遠ざかる。


 ひとつ。

 またひとつ。


 やがて、それも完全に消えた。


「……」


 辺りには静けさが戻る。

 先ほどまでとは違う、もっと深い静けさが。


 先ほどまでそこにあった“外の気配”が、すべて消えている。


 残されたのは——森と、二人だけ。


 リオは、その場に立ったまま動かなかった。


 見送るでも、引き止めるでもなく。


 ただ、そこにいた。


(……終わった)


 そんな感覚だけが、ぼんやりと残る。


 だが、本当に終わったのかは分からない。


 何かが、残っている。


 目には見えない何か。言葉にできない何かが。


「……」


 小さく、息を吐く。


 夜の空気がわずかに冷たい。けれど、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、ここにいる方が自然だと感じる。


「……戻ろうか」


 誰に言うでもなく、呟く。


 返事はない。

 だが、隣にいる気配は消えない。それだけで十分だった。


 二人は、踵を返し森の中へと歩き出す。

 並ぶわけでも、離れるわけでもない距離。ただ、同じ方向へ進む。


 言葉はない。その必要もなかった。


 月明かりは淡く、時折吹く風が葉を揺らしていく。

 そんな中、足音だけが静かに重なる。落ち葉を踏む、乾いた音。


 それが、やけに大きく感じる。


(……)


 頭の中は、静かだった。

 考えているようで、何も考えていない。


 ただ、歩いている。


 それだけの時間。


 だが、その静けさの奥で、何かが揺れている。


 形にならないまま。

 言葉にもならないまま。


 ただ、そこにある。


(……なんだろう)


 分からない。


 分からないまま。


 それでも、確かに“そこにある”。


 違和感。


 あるいは——もっと別の何か。


「……」


 無意識に、視線が前へ向く。


 先を歩く背中。見慣れているはずの、その姿。


 だが、ほんのわずかに引っかかる。


 理由は分からない。


 けれど。


 見過ごしてはいけないもののような、そんな感覚。


(……)


 言葉が、浮かぶ。


 意味はない。理由もない。


 ただ、そこにあった。それだけのもの。


「……レン」


 ふと。


 言葉が、零れた。


 自分で言ったという感覚が、薄い。

 ただ、そこにあったものを拾っただけのような。


 その言葉に、前を歩いていた男の足が止まった。


 ほんのわずかに。


 だが、確かに。


「……」


 空気が、止まる。


 辺りから音が消え、森が息を潜める。そんな錯覚を覚えた。


 ゆっくりと、目の前の男が振り返る。


 その視線が初めて、はっきりとリオを捉えた。


「……それ」


 低い声。


 わずかな間。


 何かを、探るような沈黙が落ちる。


「……誰の名前だ」


 静かな問い。


 ただ、それだけ。


 だが、そこには確かな“断絶”があった。


「……え」


 リオの思考が、止まる。


 今、自分が言った言葉。


 それを──自分は、知らない。


(……なんで)


 理解が、追いつかない。


 確かに、口にした。迷いもなく。当たり前のように。


(どうして)


 まるで胸の奥で、何かが渦巻いているようだ。


 なぜ、その名前が出てきたのか。


 分からない。


 聞いた覚えもない。

 教えられた記憶もない。


 それでも、()()()()()


 そうとしか思えない。


 確信に近い、違和感。


(……違う)


 知っている、ではない。


(……じゃあ、これは)


 そこまで考えて、止まる。


 言葉にしてはいけない。

 そんな感覚が、先に来る。


 だが、これを言葉にした瞬間、何かが壊れる。そんな予感だけがあった。


「……名前——」


 そこまで出かかって、止まる。

 喉の奥で、言葉が引っかかった。


 続けてはいけない。


 なぜか、そう思った。


「……分からない」


 ようやく、それだけを絞り出す。


 それしか言えなかった。それ以上は、言えなかった。


 彼は数秒、リオを見つめて。

 その後、わずかに視線を逸らした。


 それ以上、追及しない。興味を失ったようにも見える。


 だが、ほんの一瞬だけ。


 ごくわずかに、その動きがどこかぎこちなかった。


「……そうか」


 短い言葉。


 ただそれだけ。

 肯定も、否定もない。


 ただ、受け取っただけの声音。


「……」


 沈黙が戻る。


 だが、先ほどまでとは違う。


 確かに、何かが残っている。


 言葉にならないまま。

 形を持たないまま。


 それでも、消えないもの。


(……レン)


 再び歩き出した目の前の背中を見つめながら、リオは心の中でもう一度だけ呼ぶ。今度は声に出さずに。


 それでも。

 それが“正しい”と、どこかで分かっている。


 理由はない。

 根拠もない。


 だが、それだけは確かだった。


 森は、静かだった。


 だが、どこかが違う。


 何かに触れてしまったあとの、戻らない静けさだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ