名前
あれから、リオと男は騎士たちと共に森の外近くまで来ていた。
一度王都へ戻る騎士たちを、「また襲われないように」とリオが提案したからだ。男の許可なく口走ったその言葉に、彼はなんの反応も示さない。ただ、それを受け止めていた。
森の外縁で、騎士たちは足を止めていた。
それ以上は、踏み込まない。
いや——踏み込めないのかもしれない。
森の中と外とで、空気が違う。
見えない境界が、確かにそこにはあった。
「……では」
一人の兵が、短く頭を下げる。それに釣られて、ほかの騎士たちも皆短く頭を下げた。
それ以上の言葉はない。
本来であれば、連れ戻すべきだった。
騎士として、王子を連れ戻す義務があった。王子がいるかもしれないと一縷の望みをかけて、ここへ来たのだから。
それでも——踏み込めなかった。
その理由を、誰も言葉にしない。
ただ、騎士たちは理解していた。
ここから先は、自分たちの領域ではないのだと。
「……ご無事で」
それだけを残して、彼らは森を離れていく。
足音が、遠ざかる。
ひとつ。
またひとつ。
やがて、それも完全に消えた。
「……」
辺りには静けさが戻る。
先ほどまでとは違う、もっと深い静けさが。
先ほどまでそこにあった“外の気配”が、すべて消えている。
残されたのは——森と、二人だけ。
リオは、その場に立ったまま動かなかった。
見送るでも、引き止めるでもなく。
ただ、そこにいた。
(……終わった)
そんな感覚だけが、ぼんやりと残る。
だが、本当に終わったのかは分からない。
何かが、残っている。
目には見えない何か。言葉にできない何かが。
「……」
小さく、息を吐く。
夜の空気がわずかに冷たい。けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、ここにいる方が自然だと感じる。
「……戻ろうか」
誰に言うでもなく、呟く。
返事はない。
だが、隣にいる気配は消えない。それだけで十分だった。
二人は、踵を返し森の中へと歩き出す。
並ぶわけでも、離れるわけでもない距離。ただ、同じ方向へ進む。
言葉はない。その必要もなかった。
月明かりは淡く、時折吹く風が葉を揺らしていく。
そんな中、足音だけが静かに重なる。落ち葉を踏む、乾いた音。
それが、やけに大きく感じる。
(……)
頭の中は、静かだった。
考えているようで、何も考えていない。
ただ、歩いている。
それだけの時間。
だが、その静けさの奥で、何かが揺れている。
形にならないまま。
言葉にもならないまま。
ただ、そこにある。
(……なんだろう)
分からない。
分からないまま。
それでも、確かに“そこにある”。
違和感。
あるいは——もっと別の何か。
「……」
無意識に、視線が前へ向く。
先を歩く背中。見慣れているはずの、その姿。
だが、ほんのわずかに引っかかる。
理由は分からない。
けれど。
見過ごしてはいけないもののような、そんな感覚。
(……)
言葉が、浮かぶ。
意味はない。理由もない。
ただ、そこにあった。それだけのもの。
「……レン」
ふと。
言葉が、零れた。
自分で言ったという感覚が、薄い。
ただ、そこにあったものを拾っただけのような。
その言葉に、前を歩いていた男の足が止まった。
ほんのわずかに。
だが、確かに。
「……」
空気が、止まる。
辺りから音が消え、森が息を潜める。そんな錯覚を覚えた。
ゆっくりと、目の前の男が振り返る。
その視線が初めて、はっきりとリオを捉えた。
「……それ」
低い声。
わずかな間。
何かを、探るような沈黙が落ちる。
「……誰の名前だ」
静かな問い。
ただ、それだけ。
だが、そこには確かな“断絶”があった。
「……え」
リオの思考が、止まる。
今、自分が言った言葉。
それを──自分は、知らない。
(……なんで)
理解が、追いつかない。
確かに、口にした。迷いもなく。当たり前のように。
(どうして)
まるで胸の奥で、何かが渦巻いているようだ。
なぜ、その名前が出てきたのか。
分からない。
聞いた覚えもない。
教えられた記憶もない。
それでも、知っている。
そうとしか思えない。
確信に近い、違和感。
(……違う)
知っている、ではない。
(……じゃあ、これは)
そこまで考えて、止まる。
言葉にしてはいけない。
そんな感覚が、先に来る。
だが、これを言葉にした瞬間、何かが壊れる。そんな予感だけがあった。
「……名前——」
そこまで出かかって、止まる。
喉の奥で、言葉が引っかかった。
続けてはいけない。
なぜか、そう思った。
「……分からない」
ようやく、それだけを絞り出す。
それしか言えなかった。それ以上は、言えなかった。
彼は数秒、リオを見つめて。
その後、わずかに視線を逸らした。
それ以上、追及しない。興味を失ったようにも見える。
だが、ほんの一瞬だけ。
ごくわずかに、その動きがどこかぎこちなかった。
「……そうか」
短い言葉。
ただそれだけ。
肯定も、否定もない。
ただ、受け取っただけの声音。
「……」
沈黙が戻る。
だが、先ほどまでとは違う。
確かに、何かが残っている。
言葉にならないまま。
形を持たないまま。
それでも、消えないもの。
(……レン)
再び歩き出した目の前の背中を見つめながら、リオは心の中でもう一度だけ呼ぶ。今度は声に出さずに。
それでも。
それが“正しい”と、どこかで分かっている。
理由はない。
根拠もない。
だが、それだけは確かだった。
森は、静かだった。
だが、どこかが違う。
何かに触れてしまったあとの、戻らない静けさだった。




