表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/24

正体

 森の中に、異様な気配が満ちていた。


 気配はある。

 だが、それがどこにいるのか分からない。

 兵たちを囲うように、何かが起きる直前の、張り詰める空気の重さが纏わり付いていた。


「……来るぞ」


 先頭に立つ兵が低く告げる声とともに、剣を握る手にわずかに力が入る。


 音はない。

 風が吹いているはずなのに、葉の擦れる音すら、どこか遠い。


 自分たちの立てる音だけが、場違いに大きい。

 靴底が土を踏む感触だけが、やけに現実的だった。


 その静けさの中で──それは、いた。


「──っ!」


 最初に崩れたのは、後方だった。


 何もない空間から、光を吸いながら黒い影が()()()()()現れる。


 遅れて、形を持つ。


 四足。

 だが、どこか歪んでいる。


 関節の位置が合わない。

 足の運びが、明らかに生き物のそれではない。


「下がれッ!!」


 叫びと同時に、剣が振るわれる。


 だが──


「なっ……!?」


 当たらない。


 確かに捉えたはずの軌道が、()()()


 斬った感触がない。

 手応えだけが、空を切る。


 避けられたのではない。

 そこに“いたはずのもの”が、一瞬で位置を変えている。影だけが遅れて揺れた。


「囲め!」


 隊列を組む。


 だが、その瞬間にはもう遅い。


 別の影が、横から食い込んでくる。


「ぐっ──!」


 一人が吹き飛ばされ、血が地面に散る。


「数が……!」


 誰かが呟く声に周囲を見渡せば、視界の端に映る影が増えている。


 一体ではない。

 二体でもない。


 いつの間にか──“囲まれている”。


「落ち着け! 一体ずつ──」


 言い切る前に、声が途切れる。


 正面の影が、消えた。


 いや──違う。


「上だ!!」


 反射的に見上げる。


 枝の上。


 あり得ない体勢で、それは張り付いていた。


 次の瞬間、落ちてくる。


 速い。

 速すぎる。

 剣を振るうが、間に合わない。


 振り抜かれた腕が、空気ごと抉った。


「──ッ!!」


 衝撃。


 腕が痺れる。


 刃は、届いていない。


 それでも──()()()()()()()()だけが残る。


「なんだ、これは……!」


「当たってるはずだろ……なのに、なぜ倒れない!?」


 激しく鳴り響く金属音と、荒い呼吸があたりを支配する。指示の声が飛び交う中で、兵たちは追い込まれていた。


 視界が狭まる。


 理解が追いつかない。

 どこを見ればいいのか分からない。

 見えているものすべてが、信用できない。


 確かに斬ったはずなのに、音が遅れてやってくる。


 敵の動きが読めない。

 数も分からない。


 迫ってくるのに音がなくて、距離感も狂う。


 そこにいるのに、輪郭が定まらない。

 見えているはずなのに、形として認識できない。


「後退するぞ!」


 だが、退路がない。


 振り返った先にも、それはいた。


 音もなく、そこにいる。


「……くそッ」


 隊列が崩れる。


 一人、また一人と下がる。


 その隙間に、影が入り込む。


「っ、援護を──」


 言葉が途切れる。


 目の前で、仲間の喉元に黒が走る。


 音がない。

 ただ──倒れる。


「……」


 一瞬、思考が止まる。


 目の前の光景に、頭が理解を拒む。


 それでも、体は動いた。


 剣を振るう。


 叫ぶ。


 それでも、届かない。


「……終わる」


 誰かが、呟いた。


 その言葉に、誰も反応しなかった。

 否定する余裕すら、もう残っていなかった。


 剣を握る手が震える。


 後退しようとしても、足が動かない。


 まさに絶対絶命の危機という、そのときだった。


 ──空気が、変わった。


 風が止む。


 いや、違う。


 “揺れが消えた”。


 森そのものが、一瞬だけ“動きをやめた”ように感じた。


 影の動きが、一瞬だけ止まる。


 それは、ほんのわずかな変化。


 だが。


 確かに──“断絶”が入った。

 それまでの流れが、そこで完全に切り離された。


「……?」


 誰かが顔を上げる。


 その視線の先。

 そこに──人がいた。


 音も、気配もなく、ただそこに立っていた。


 黒い外套。

 無造作に下ろされた腕。


 構えもない。

 警戒もない。


 それでも。


「……なんだ、あれは」


 誰かが、呟く。


 次の瞬間、それは動いた。


 一歩。


 ただ、それだけ。


 足音は、聞こえなかった。


 だが、その動きに合わせて──影が、崩れ落ちて消えた。

 斬られた、という認識すら追いつかない。


 ただ、そこにあったものが()()()()


 消えたのか、斬られたのかすら分からない。


 一体。


 また一体。


 何も起きていないかのように、数だけが減っていく。


 音も、衝突もない。

 悲鳴すら、上がらない。


 ただ──終わっていく。


「……は?」


 理解が、追いつかない。


 振ったところは見えなかった。

 戦闘だったはずのそれが、いつの間にか“処理”に変わっている。


 最後の一体が、わずかに距離を取る。

 逃げるでもなく、威嚇するでもなく、ただそこに留まる。


 そして。

 次の瞬間には──消えていた。


 静寂。


 何もない。

 本当に、何もない。


 さっきまでの戦闘が、嘘だったかのように。


「……」


 兵たちは、誰も動けない。


 息だけが、荒く残る。


 その中で。

 ただ一人だけ、呼吸を乱していない存在がいた。


 視線が、そちらへ向く。


 黒い外套の男。

 血はついていない。


 まるで最初から何事もなかったかのように、そこに立っている。


 あまりにも静かだった。

 戦闘の直後とは思えないほどに。


「……」


 男は何も言わない。


 視線も向けない。


 ただそこにいるだけ。


 それだけで、場のすべてが止まっている。


「……た、すかった……のか……?」


 誰かが呟く。

 それに答える者はいない。


 ただ、理解だけが遅れて広がる。


 終わった。


 あの“化け物”は、倒された。


 そのときだった。


 視界の端に、もう一人が映る。


 少し離れた場所。

 木々の間に、立っている影。


 戦闘には関わっていない。


 ただ、そこにいた。


「……誰だ……?」


 思考が、ゆっくりとそちらへ向く。


 今まで、気づいていなかった。


 なぜ。

 ここにいるのに。

 どうして、今まで認識できなかったのか。


 こちらを見ている、少年。


 月明かりが差し込む。

 木々の隙間から、細く落ちる光の中に少年が足を踏み入れる。


 その光が、髪に触れる。


 月明かりを受けて、髪が白く揺れた。

 だが、それは純粋な白ではない。わずかに金を含んだ、不確かな色。


「……は……?」


 一瞬、思考が止まる。


 いや、止まったのではない。

 追いついていない。


 違う。


 あり得ない。


 そんなはずはない。


 顔を見る。


 整っている。


 見覚えがある。


 いや──知っている。


 視線が、合う。


 その瞳。


 逃げ場が、なかった。


 光を吸い込むような、碧。


 その碧を見た瞬間、思考が止まった。


「……ぁ……」


 喉が、鳴る。


 息の仕方を、忘れる。


 言葉にならない音。


 理解が、追いついた瞬間。


 すべてが、崩れる。


「……でん……」


 呼吸が止まる。


 足が動かない。


「……殿下……?」


 声が、漏れた。


 小さく。

 震えるように。


 信じられないものを、目の前にしたときの声。


 それは、驚きではない。

 理解してしまったことへの、静かな崩壊だった。


 空気が、変わる。


 その言葉は、静かに広がる。


 誰も大声を出さない。

 否、出せない。


 あり得ない。


 ここにいるはずがない。


 それでも。


 目の前にいる。


 ──王家の証。


 あの色を、見間違えるはずがない。


「……」


 リオは、何も言わなかった。


 ただ、そこに立っている。


 その表情に、動揺はない。


 逃げる様子もない。

 隠そうともしていない。


 ただ、そこにいる。


 それが、余計に現実を歪める。


「……どうして……」


 誰かが、かすかに呟く。


 だが答えはない。


 視線が、再び動く。


 男へ。


 黒い外套。

 感情の見えない目。


 そこに立っているはずなのに、どこか輪郭が曖昧な存在。


「……」


 言葉が出ない。


 理解が、拒む。


 あの男は何だ。


 分からない。


 だが、()()()()()()

 それだけは、はっきりとしていた。


 男は、何も言わない。


 ただ、わずかに視線を動かす。


 その瞬間、場の空気が凍りついた。


 敵ではない。

 だがそれ以上に、踏み込んではいけない何か。


 本能が、理解する。


 ここは──自分たちのいる場所ではない。


「……」


 誰も、動けなかった。


 風が吹く。


 遅れて、葉が揺れる。


 音が戻る。


 だがそれは、どこか遠い。


 揺れたはずの枝は、もう動いていない。

 それでも、葉擦れの音だけが、わずかに遅れて耳に残る。


 現実が、少しだけ遅れて追いついてくる。


 それでも。


 もう、元には戻らない。


 “見てしまった”。


 それだけが、確かに残っていた。


 そして、それは消えないと、誰もが理解していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ