正体
森の中に、異様な気配が満ちていた。
気配はある。
だが、それがどこにいるのか分からない。
兵たちを囲うように、何かが起きる直前の、張り詰める空気の重さが纏わり付いていた。
「……来るぞ」
先頭に立つ兵が低く告げる声とともに、剣を握る手にわずかに力が入る。
音はない。
風が吹いているはずなのに、葉の擦れる音すら、どこか遠い。
自分たちの立てる音だけが、場違いに大きい。
靴底が土を踏む感触だけが、やけに現実的だった。
その静けさの中で──それは、いた。
「──っ!」
最初に崩れたのは、後方だった。
何もない空間から、光を吸いながら黒い影が滲むように現れる。
遅れて、形を持つ。
四足。
だが、どこか歪んでいる。
関節の位置が合わない。
足の運びが、明らかに生き物のそれではない。
「下がれッ!!」
叫びと同時に、剣が振るわれる。
だが──
「なっ……!?」
当たらない。
確かに捉えたはずの軌道が、ずれる。
斬った感触がない。
手応えだけが、空を切る。
避けられたのではない。
そこに“いたはずのもの”が、一瞬で位置を変えている。影だけが遅れて揺れた。
「囲め!」
隊列を組む。
だが、その瞬間にはもう遅い。
別の影が、横から食い込んでくる。
「ぐっ──!」
一人が吹き飛ばされ、血が地面に散る。
「数が……!」
誰かが呟く声に周囲を見渡せば、視界の端に映る影が増えている。
一体ではない。
二体でもない。
いつの間にか──“囲まれている”。
「落ち着け! 一体ずつ──」
言い切る前に、声が途切れる。
正面の影が、消えた。
いや──違う。
「上だ!!」
反射的に見上げる。
枝の上。
あり得ない体勢で、それは張り付いていた。
次の瞬間、落ちてくる。
速い。
速すぎる。
剣を振るうが、間に合わない。
振り抜かれた腕が、空気ごと抉った。
「──ッ!!」
衝撃。
腕が痺れる。
刃は、届いていない。
それでも──何かに触れた感触だけが残る。
「なんだ、これは……!」
「当たってるはずだろ……なのに、なぜ倒れない!?」
激しく鳴り響く金属音と、荒い呼吸があたりを支配する。指示の声が飛び交う中で、兵たちは追い込まれていた。
視界が狭まる。
理解が追いつかない。
どこを見ればいいのか分からない。
見えているものすべてが、信用できない。
確かに斬ったはずなのに、音が遅れてやってくる。
敵の動きが読めない。
数も分からない。
迫ってくるのに音がなくて、距離感も狂う。
そこにいるのに、輪郭が定まらない。
見えているはずなのに、形として認識できない。
「後退するぞ!」
だが、退路がない。
振り返った先にも、それはいた。
音もなく、そこにいる。
「……くそッ」
隊列が崩れる。
一人、また一人と下がる。
その隙間に、影が入り込む。
「っ、援護を──」
言葉が途切れる。
目の前で、仲間の喉元に黒が走る。
音がない。
ただ──倒れる。
「……」
一瞬、思考が止まる。
目の前の光景に、頭が理解を拒む。
それでも、体は動いた。
剣を振るう。
叫ぶ。
それでも、届かない。
「……終わる」
誰かが、呟いた。
その言葉に、誰も反応しなかった。
否定する余裕すら、もう残っていなかった。
剣を握る手が震える。
後退しようとしても、足が動かない。
まさに絶対絶命の危機という、そのときだった。
──空気が、変わった。
風が止む。
いや、違う。
“揺れが消えた”。
森そのものが、一瞬だけ“動きをやめた”ように感じた。
影の動きが、一瞬だけ止まる。
それは、ほんのわずかな変化。
だが。
確かに──“断絶”が入った。
それまでの流れが、そこで完全に切り離された。
「……?」
誰かが顔を上げる。
その視線の先。
そこに──人がいた。
音も、気配もなく、ただそこに立っていた。
黒い外套。
無造作に下ろされた腕。
構えもない。
警戒もない。
それでも。
「……なんだ、あれは」
誰かが、呟く。
次の瞬間、それは動いた。
一歩。
ただ、それだけ。
足音は、聞こえなかった。
だが、その動きに合わせて──影が、崩れ落ちて消えた。
斬られた、という認識すら追いつかない。
ただ、そこにあったものがなくなる。
消えたのか、斬られたのかすら分からない。
一体。
また一体。
何も起きていないかのように、数だけが減っていく。
音も、衝突もない。
悲鳴すら、上がらない。
ただ──終わっていく。
「……は?」
理解が、追いつかない。
振ったところは見えなかった。
戦闘だったはずのそれが、いつの間にか“処理”に変わっている。
最後の一体が、わずかに距離を取る。
逃げるでもなく、威嚇するでもなく、ただそこに留まる。
そして。
次の瞬間には──消えていた。
静寂。
何もない。
本当に、何もない。
さっきまでの戦闘が、嘘だったかのように。
「……」
兵たちは、誰も動けない。
息だけが、荒く残る。
その中で。
ただ一人だけ、呼吸を乱していない存在がいた。
視線が、そちらへ向く。
黒い外套の男。
血はついていない。
まるで最初から何事もなかったかのように、そこに立っている。
あまりにも静かだった。
戦闘の直後とは思えないほどに。
「……」
男は何も言わない。
視線も向けない。
ただそこにいるだけ。
それだけで、場のすべてが止まっている。
「……た、すかった……のか……?」
誰かが呟く。
それに答える者はいない。
ただ、理解だけが遅れて広がる。
終わった。
あの“化け物”は、倒された。
そのときだった。
視界の端に、もう一人が映る。
少し離れた場所。
木々の間に、立っている影。
戦闘には関わっていない。
ただ、そこにいた。
「……誰だ……?」
思考が、ゆっくりとそちらへ向く。
今まで、気づいていなかった。
なぜ。
ここにいるのに。
どうして、今まで認識できなかったのか。
こちらを見ている、少年。
月明かりが差し込む。
木々の隙間から、細く落ちる光の中に少年が足を踏み入れる。
その光が、髪に触れる。
月明かりを受けて、髪が白く揺れた。
だが、それは純粋な白ではない。わずかに金を含んだ、不確かな色。
「……は……?」
一瞬、思考が止まる。
いや、止まったのではない。
追いついていない。
違う。
あり得ない。
そんなはずはない。
顔を見る。
整っている。
見覚えがある。
いや──知っている。
視線が、合う。
その瞳。
逃げ場が、なかった。
光を吸い込むような、碧。
その碧を見た瞬間、思考が止まった。
「……ぁ……」
喉が、鳴る。
息の仕方を、忘れる。
言葉にならない音。
理解が、追いついた瞬間。
すべてが、崩れる。
「……でん……」
呼吸が止まる。
足が動かない。
「……殿下……?」
声が、漏れた。
小さく。
震えるように。
信じられないものを、目の前にしたときの声。
それは、驚きではない。
理解してしまったことへの、静かな崩壊だった。
空気が、変わる。
その言葉は、静かに広がる。
誰も大声を出さない。
否、出せない。
あり得ない。
ここにいるはずがない。
それでも。
目の前にいる。
──王家の証。
あの色を、見間違えるはずがない。
「……」
リオは、何も言わなかった。
ただ、そこに立っている。
その表情に、動揺はない。
逃げる様子もない。
隠そうともしていない。
ただ、そこにいる。
それが、余計に現実を歪める。
「……どうして……」
誰かが、かすかに呟く。
だが答えはない。
視線が、再び動く。
男へ。
黒い外套。
感情の見えない目。
そこに立っているはずなのに、どこか輪郭が曖昧な存在。
「……」
言葉が出ない。
理解が、拒む。
あの男は何だ。
分からない。
だが、普通ではない。
それだけは、はっきりとしていた。
男は、何も言わない。
ただ、わずかに視線を動かす。
その瞬間、場の空気が凍りついた。
敵ではない。
だがそれ以上に、踏み込んではいけない何か。
本能が、理解する。
ここは──自分たちのいる場所ではない。
「……」
誰も、動けなかった。
風が吹く。
遅れて、葉が揺れる。
音が戻る。
だがそれは、どこか遠い。
揺れたはずの枝は、もう動いていない。
それでも、葉擦れの音だけが、わずかに遅れて耳に残る。
現実が、少しだけ遅れて追いついてくる。
それでも。
もう、元には戻らない。
“見てしまった”。
それだけが、確かに残っていた。
そして、それは消えないと、誰もが理解していた。




