森の導き
森は、音を持たなかった。
だがその静けさは、ただ音がないというだけではない。
奥に、何かがあるような。
まだ触れてはいない何かが、そこに“在る”と分かっているような。
そんな静けさだった。
風は吹いている。
木々の間を抜け、葉に触れて、確かにそこを通り過ぎていく。
けれど、その気配はどこか薄い。
音として届く前に、ほどけてしまうような。
それでも——リオは、その違和感を気にすることはなかった。
「……今日も、静かだね」
歩きながら、何気なく呟く。
隣を歩く男は、少し遅れて、
「……ああ」
とだけ返した。
それだけの会話。続かない。広がらない。それだけで会話は終わる。
けれど、それで足りている。
二人はそのまま、森の中を歩いていく。
どちらが先でもなく、どちらが導くでもない。
ただ同じ方向へ、同じ速さで進んでいる。
そのはずだった。
「……」
しばらく歩いたあとにふと、リオは足を止めた。
「……あれ」
小さく、声が漏れる。
「……どうした」
背後から、低い声。
だがリオはすぐには答えなかった。
リオは少しだけ考えて、
「いや……」
と答えた。
言葉が続かない。
何かを感じた気がする。
だが、それが何なのか分からない。思考が、そこまで届かない。
「……なんでもない」
わずかに首を振りながらそう返して、視線を前へ戻す。
そして──迷うことなく、進む方向を変えた。
「……そっちは、行ったことがない」
背後からの、静かな指摘にリオは振り返らない。
「うん」
即答だった。
躊躇はない。
考える間もない。
けれど。
「……なんか、こっちだと思った」
理由はない。
説明もできない。
それでも、その言葉に嘘はなかった。
男は何も言わない。
止めることも、肯定することもなく。
ただ、その後ろをついてくる。
二人はそのまま森の奥へと進んでいく。
それに釣られて、少しずつ景色が変わっていく。
踏み出すたびに、足元の感触がわずかに変わる。
同じ土のはずなのに、沈み方が違う。
木々が増えたわけではない。
けれど、いつの間にかその距離が近づいている。
枝は、互いに触れ合わないぎりぎりのところで伸び、まるで道を形作るように、空間を残していた。
葉の隙間から差し込む光は、柔らかい。
だがその光は地面に届く前に、どこかで沈み、広がらない。
風が、頬をかすめる。
葉が揺れる音は確かにあるのに、その音はわずかに遅れて耳に届く。
一定ではないはずの流れが、なぜか同じ方向へと、繰り返し抜けていく。
まるで、どこかへ向かっているような。
その流れに、無意識に足が揃う。
迷っている感覚は、どこにもなかった。
迷うという選択肢自体が、最初から与えられていないようだった。
「……」
リオは、周囲を見渡した。
景色は変わっているけれど、見慣れているはずの森。
それなのに、どこか違う。
(……変だな)
そう思う。
だが、その感覚はすぐに形を変える。
(……でも)
言葉にならないまま、胸の奥へ落ちていく。
(……嫌じゃない)
むしろ——自然だ。
ここにいることの方が、正しいように感じる。
「ねえ」
リオは、前を見たまま口を開く。
返事はない。
だが、聞いているのは分かる。
「来たことないのにさ」
少しだけ間を置いて、
「……分かる気がするんだよね」
「……何がだ」
低い声が返る。
リオは、少しだけ考えてから、
「道」
と短く答えた。
それだけなのに、その一言が妙に重く残る。
(……変なの)
自分でも、そう思う。
分かるはずがない。
知らない場所なのに。
それでも——分かってしまう。
「……ねえ」
もう一度、口を開く。
「これってさ」
言葉を探す。
うまく掴めない。
けれど、それでも。
「……来るべき場所だったのかな」
ぽつりと、零れる。
その瞬間。
後ろの気配が、止まった。
ほんのわずかに。
だが、確かに。
「……?」
リオが振り返ると、男はこちらを見ていた。
いつもと同じはずの視線。
だが、ほんのわずかにだけ長い。
「……」
何かを言おうとしているようにも見えた。
わずかに、間が空く。
「……いや」
結局、それだけだった。
それ以上は、何も言わない。
何もなかったかのように、再び歩き出す。
「……」
リオは少しだけ首を傾げたが、それ以上は気にしなかった。
思考が、続かない。
考えようとすると、どこかで途切れてしまう。
代わりに残るのは、感覚だけ。
(……分からない)
理由もない。
根拠もない。
それでも。
(……ここでいい)
その感覚だけが、はっきりとある。
「……大丈夫だよ」
気づけば、そう口にしていた。
「……何がだ」
「分からないけど」
少しだけ、笑う。
「……間違ってない気がする」
それは、確信だった。
説明できない。
言葉にもできない。
それでも、揺らがない。
二人は、そのまま歩き続ける。
森の奥へ。
より深く。
より静かな場所へ。
足音は、確かに響いているはずなのに、どこか遠くで鳴っているように感じた。
(呼ばれているわけじゃない)
ふと、そう思う。
(でも)
言葉にならない何かが、そこにある。
(……自分で来たはずなのに)
ほんのわずかに、違和感。
(……違う気がする)
歩いているのは、自分だ。
選んでいるのも、自分のはずだ。
それなのに。
(……気づいたら、ここにいる)
その感覚だけが、残る。
否定はできない。
理解もできない。
ただ——
(……ここに来ることは、決まっていた)
(……ここに来たのは、偶然じゃない)
そんな感覚が、静かに胸に落ちる。
***
森は、静かだった。
だがその静けさは、留まるものではない。
何かを拒むでもなく、受け入れるでもなく。
ただ、そこへ至ることだけが許されているかのような。
気づかないうちに、足を進ませる流れの中にあった。




