17.番じゃなくても
ダリルが目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。
天井は低く、窓辺には厚いカーテン。重厚な木製の家具と、壁際に立てかけられた長剣や軍靴──明らかに客用の部屋ではない。
ロデリックの屋敷、その奥の、きっと普段は誰も使わない、実務のための部屋。
身体を起こすと、鈍い痛みが走った。
(……ああ、そうか)
剣で切られた後はキッチリと包帯が巻かれていた。
多分、痛み止めが効いているんだろう。それと、抑制剤。そのおかげで、頭ははっきりしていたが、薬で抑えられた痛みがジクジクと残っている。
脇に置かれた姿見が目に入り、ふらつく足取りでそっと近づく。
鏡に映る自分の姿──襟元の奥の首筋に、淡く赤い噛み痕がチラリと見える。
指先をそっと触れた。
かすかに熱を持っていて、心臓の鼓動がその場に集まっているような感覚。
痛いような、甘いような感覚。
「……これが、番の印か」
自分自身なのに、まるで遠い場所で起こった出来事のようだった。
低く、笑いにもならない吐息が漏れる。
これは……誰かに押し付けられた鎖じゃない。
俺が手を伸ばした、その証なのだ、と……そう、思いたかった。
ノック音が響く。
「……失礼します」
声の主は、エドガー・レオンハルトだった。
扉が開き、手に数枚の書類を抱えた彼が現れる。
「ダリル様、起きて大丈夫ですか?」
「……多分。問題はこっちだろ」
ダリルはゆっくりと腰を下ろし、エドガーが手渡した書類に目を走らせる。
宰相派の密使と王国使節団の間で交わされた秘密裏のやりとり。
講和条約の裏で、帝国に対する工作が進められていた。
エドガーが静かに告げる。
「閣下は、これを議政庁に持ち込み、皇帝陛下の前で直接叩きつけるおつもりです」
ダリルは驚きに目を見開いた。
言外に伝わるのは、これが帝国の、いや大陸の未来を左右する瞬間になるということだった。
「アンリ……」
書類にはその名があった。唇がかすかに引きつる。
(──やはり、あいつはただの使者じゃなかった)
そのとき、背後の扉が静かに開く。
振り返ったダリルの視界に、黒衣の男の姿が映った。
ロデリック・フォン・ヴェステンベルク。
「……中庭でも会ったな、個人的な知り合いか?」
低い声が静かに問う。
ダリルはわずかに肩をすくめ、視線を外した。
「アンリ・ド・グレイユ……俺の元婚約者」
ロデリックの瞳が、ほんのわずか鋭さを帯びる。
「てっ言っても、14の頃には婚約破棄されたけど」
ダリルが肩をすくめた。
──王国使節団の中に紛れていた密使。
──議政庁の内通者。
──その背後にいるのは宰相派の一部。
ロデリックの低い声が部屋に落ちる。
「……あの男が最後の駒を切るとしたら、議政庁の会議だ」
エドガーが小さくうなずく。
ロデリックは重々しく席を立つと、ふとダリルに視線を落とした。
その姿はまだ薄い毛布を羽織ったまま、細身の身体を支えて椅子に座っている。
一瞬、手がわずかに止まる。
だが次の瞬間には、いつもの鋭さを取り戻していた。
「……準備を整えろ、エドガー」
エドガーは短く敬礼し、すぐに扉を閉めた。
残された静寂の中、ダリルは立ち上がり、壁際に置かれた外套を掴む。
「……俺も行く」
低く、しかしはっきりとした声。
ロデリックが、鋭い金の瞳を向けた。
「お前はまだ回復していない」
「関係ない。……これは俺の戦いだ」
ダリルは、薄い笑みを浮かべた。
「番としてじゃない。……ダリル・エティエンヌ・ド・ヴァレールとして、俺が向き合わなきゃいけない」
一瞬、沈黙。
ロデリックの指がわずかに動き、長い息を吐く。
そして、わずかに目を細め、低く言った。
「……わかった」
ゆっくりと歩み寄り、ダリルの肩に手を置く。
「隣に立て。ただし──守れ。自分の命を」
ダリルは小さく笑い、頷いた。
思わずロデリックの手が伸びる。
「ちょっ……」
背後から、優しく抱きしめられ、ダリルの肩がびくりと震える。
「お前が番じゃなかったとしても」
低く囁く声が、耳元に落ちる。
「……俺は、お前を選んだと思う」
ダリルは息を呑み、耳まで赤くなり、肩を強張らせた。
「な……なんで今それ言うんだよ……っ」
震える声が零れ、抵抗しようとするが、背後からの腕は微動だにしない。
ふっと、ロデリックが笑った気配がした。
そして頸に、そっと唇が触れる。
「……っ!!?」
ダリルの心臓が跳ね上がり、全身が一瞬で熱を帯びる。
思わず足元がぐらつき、ロデリックの胸元に手を突いたが、逃げる力が入らない。
「待っ、や、めろ……!!」
羞恥で顔を真っ赤にし、必死に声を上げる。
なのに、ロデリックの腕の中はあまりに静かで、あまりに強く、決してほどけなかった。




