13.調印式の朝
朝の光がまだ灰色の空に淡く滲むころ、大公邸の一室には静謐な気配が満ちていた。
控えの間には重厚な木製の衣装棚があり、中央には磨き上げられた大きな姿見が置かれている。その鏡面は、窓の外に広がる、霞がかった帝都の姿を静かに映し出していた。
ダリルは深く息を吐き、鏡の前に立った。
身にまとったのは、淡いグレイブルーの礼装。
それは帝国の格式ある式典にふさわしく仕立てられ、襟元や袖口に施された繊細な銀糸の刺繍が、朝の薄明かりを受けて微かに輝きを放っていた。
手首には変わらず、銀の鎖が冷たく光っている。
それでも、ダリルは背筋を伸ばし、鏡の中の自分を見つめ返す。
その表情には、諦めでも屈辱でもなく、静かで揺るぎない誇りが宿っていた。
扉が静かにノックされ、開かれた扉の向こうからロデリックが現れた。
彼の纏うのは、黒と深紅の礼装軍服。
肩を飾る銀糸の獅子紋章と、無駄のない直線が、彼の存在を鮮烈に際立たせる。
だがその存在感は威圧的ではなく、どこか包み込むような静かな威厳を漂わせている。
鏡越しに視線が交わった。
「……その服は、お前の色じゃないと思っていた」
唐突にロデリックが言う。
その声音はいつもよりも柔らかく、微かに感情が滲んでいた。
「だが、今日のためには――似合う」
ダリルは短く鼻で笑った。
「帝国のために似合う服を着ているだけだ」
小さく笑うが、その胸には、今度こそ何かを掴み取ろうとする微かな決意が宿っていた。
ロデリックは無言で一歩近づき、机の上に置かれていた手袋をゆっくりと手に取る。
「鎖、どうする」
ダリルは鎖を一瞥し、小さく息を吐いた。
「外しても逃げないって思ってるんだろ?」
「思っている。だが、今日は政治が優先だ」
静かな現実が言葉に込められているのを感じ取り、ダリルは微かな笑みを浮かべる。
「……知ってるよ」
鎖が小さく衣擦れの音を立てて揺れた。
ロデリックがゆっくりとダリルの隣に並ぶ。
鏡には、並び立つ二人の姿が映る。それは一瞬の儚い幻のように美しく、同時に抗い難い重みを持っていた。
──まるで、敵同士だったはずの二人が、同じ戦場に立とうとしていることの予兆のように。
「……並んで歩くのも、悪くないと思った。お前に似合う戦場じゃないが」
ロデリックが低く静かに呟くと、ダリルは少しだけ目を細めて静かな笑みを返した。
「そうだな。こっちは、得意分野じゃない」
それでも彼は胸を張り、鎖を気にせず、ゆっくりと歩を進めた。
鏡の中では銀鎖が静かに揺れ、その隣には沈黙の中にも力強い獅子の影が寄り添っている。
調印式という名の舞台へと向かう静かな朝が、穏やかに幕を開けた。




