12.獅子の隣、誇りの剣
夜、屋敷の空気はどこか張り詰めていた。
石造りの廊下の奥にある、大公専用の書斎──そこは厚い扉と重々しい柱時計、黒檀の本棚に囲まれた重心のような空間だった。
壁一面に並んだ本は、戦史と法令集ばかりで、装飾的なものは少ない。
暖炉には薪がくべられ、低く赤い火が揺れている。
その温もりがかえって空間の静けさを際立たせ、あらゆる言葉に重みを与えるようだった。
ロデリック・フォン・ヴェステンベルクの姿が、窓辺にあった。
黒衣のまま、外を見つめる背中には鎧のような威圧と、どこか孤独な影が混ざっている。
ダリルは黙って室内に入り、扉を静かに閉じた。
銀鎖が、乾いた音を立てる。
「……来たか」
振り返ったロデリックの声は、いつも通りだった。
静かで、抑えられた低音──だが、この書斎では特に深く響いて聞こえた。
「何が起きてる」
ダリルが問う。
昼間から屋敷の空気が不穏だった。
それに「処分」という言葉──
ここにくる途中も使用人たちが怯えたような目で距離を取り、エドガーは明らかに何かを言い淀んでいた。
ロデリックは言う。
「……宰相派が動いた。皇帝派の一部と共に、お前の処遇について正式に協議に入った」
ダリルの目が細められる。
「つまり……俺をどうするか、ってことか」
「そうだ」
「処分か。……引き渡しか」
「そのどちらも、俺は拒否した」
短く返されたその言葉に、ダリルの胸に微かに熱が走る。
けれど、それ以上に、次の言葉が冷たく突き刺さった。
「……だが、お前をこのまま帝都に置くわけにはいかない」
「……は?」
静かに差し出された選択肢はふたつ、大公領の奥地にある屋敷に行くか、あるいは忠誠を誓う分家の領地へ行くか。
「そこなら、しばらくは安全だ。少なくとも、政治の場には晒さずに済む」
ダリルは笑った。
乾いた、ひどく冷たい笑いだった。
「──また、それか」
ロデリックがわずかに眉を動かす。
「お前を守るためだ」
「守る? ……また俺は、誰かに守られるためだけの存在に戻れってのか」
「違う」
「違わない! あんたは俺を番だと決めた。それで全部、押し通そうとする」
ダリルは睨む。
「番だから? Ωだから? 大事にする価値があると判断したからか?」
ロデリックは言葉を返さない。
けれどその沈黙が、返答の代わりだった。
ダリルの肩が震える。
「……俺は、ここに残る」
「危険だ」
「知ってる」
「命を落とすかもしれない」
「それでも、俺は逃げたくない」
銀鎖が、低く軋んだ。
ロデリックは目を伏せた。
だが、次に顔を上げたとき、その瞳には確かな意志があった。
「ならば、俺の傍にいろ」
ダリルの目が見開かれる。
「……数日後、講和の調印式がある。その場に、お前も出席しろ」
「また見世物か」
「違う。……立場を示す。ただそれだけだ」
ロデリックは言った。
「──隣に、立て」
ダリルは目を見開いた。
ロデリックの表情は真剣で、その眼差しがダリルに突き刺さる。
「……少し考える」
ダリルの小さい声にロデリックは頷いた。
その夜、答えは出なかった。
書斎を出たダリルは、暖炉の赤い光が遠ざかるのを背中で感じながら、心にわだかまるものを抱えたまま、ただ眠れぬ夜を過ごした。
※
朝、剣を振る。
これはもう、ダリルにとって習慣のひとつになっていた。
まだ陽の昇りきらぬ庭園の片隅。
吐く息が白く、手に握る剣の鍔が冷たい。
ダリルは構えを取り、黙々と剣を振り続ける。
何度も、何度も。
獅子は言った──「隣に立て」。
けれど、本当にそれは許されるのだろうか?
Ωが、αの隣に並び立つなど。
ダリルが見てきたΩは皆、αに従属していた。
従うこと、繋がれること、それが当然だと教え込まれていた。
(俺は、番だから守られる……それで終わりか?)
銀鎖が微かに揺れ、静かな音を立てた。
剣を振る手に、力がこもる。
胸の奥が、焦りと苛立ちに締め付けられた。
(番だから? Ωだから? 大事にする価値があると判断したから?)
何度目かの素振りのあと、ダリルは剣を振り下ろし、呼吸を整える。
前髪が額に張り付き、冷たい風が火照った肌をなでていく。
深く、長い息を吐く。
──隣に立つ。
その言葉の意味を、掴みたい。
どれほど無謀に思われても、俺は、俺の意思でそこに立ちたい。
ふと、顔を上げると窓辺に人の姿が見えた。
ロデリックだった。
腕を組み、黙ってダリルを見守っている。
ダリルはわずかに剣を下ろし、強張った唇を引き結ぶ。
その青い瞳が、一瞬だけロデリックを正面から射抜く。
(あんたが言ったんだ。──隣に、立て、と)
内心、ほんの微かな笑みが浮かびかけたが、それを振り払い、ダリルは再び剣を握り直した。




