〈第26話〉幽山踏破
「(『な……なんだよ、これっ…!?』)」
アベルの声が、理解の範疇を超えた質量に凍り付くのが伝わってきた。
藍色の巨躯が微動だにするたび、空気そのものが逃げ場を失って音を上げる。
足元から伝わる振動も、より鮮明なものになる。
「(『えーっと……さっき見せたものだね…?見ての通り、あっちも術印の出力、上げたみたい…』)」
「(『いやいやいや!?いくらなんでも、お前が見せたことと違いすぎないか…!?デカさも、見た目も…!』)」
そうしてゆっくりと、藍霊の山そのものを削り出したかのような腕が上へと振り上げられた。
ドロリと不定形に蠢いていた腕は波打ち、瞬時に一抱えもある岩石へと凝固する。
それは、本来空から降り注ぐはずの陽光を完全に塗り潰す影を落とした。
「(……どうしよ、これ…)」
狙いは、僕。
陽の光に変わって突き刺さってくるのは殺気。
まるで人が害虫を潰そうとする、その一瞬の殺意だった。
「(『……っ!来るぞっ…!!』)」
刹那、逃げ場のない空気が絶叫し、風切り音が森を震わせる。
向かってくる圧に身体が押し出されそうになった。
それはもはや『攻撃』という概念を超えた、純粋な天災の落下。
けれど、藍霊ならまだ物理的な接触は可能。
「(『とりあえず、アベルはそのまま、周りに集中!』)」
「(『お、おい、まさか…』)」
隕石にも等しい膨大な質量が、脳天からこちらを粉砕せんと垂直に叩きつけられる。
凄まじい衝撃は地表を爆ぜさせ、鼓膜を震わせる。
その暴威の余波を、何とか後方への跳躍で紙一重にかわした。
「それ……僕においでって言ってるみたいじゃんか!?」
深々と地面を抉り、その破壊力分埋め込んだ藍霊の腕。
巻き上がった土埃を走り裂き、地面を蹴って前進。
そうして、誘われるように地響きを上げるその腕へと躍り出る。
「うっや…!?」
でも、降り立った場所は腕というより、まるで怨嗟の奔流だった。
駆け上がる僕の足元で、素材となっている無数の灰霊たちが同時に蠢き出す。
それは、腕の表面から無数の青白い手となって這いずり、足首を絡め取らんと群がってきた。
「(これ……全部が幽霊…)」
改めて間近で見て、おどろおどろしい場所に降り立ったのだと実感させられた。
意思を持つように常に変化し続ける足場。
加えてありとあらゆる場所から藍色の幽霊たちが僕に向かってくる。
その異様なほどの執着を、一歩ごとに断ち切っていった。
「(確か、魂の密集地は…)」
視線を上へ向けると、渦を描くように魂が回る巨大な藍霊の顔が目に入る。
僕に対する敵意が、より密集するように向けられている出所。
そして、そここそがこの巨大な藍霊の核とも言える魂が集まっている場所でもあった。
「……見下ろされるのは、あんまり好きじゃないだよね?」
視界を開けるように、向かってくる大量の幽霊たちを『破落』によって一気に砕き、退ける。
空中に静止したように動かない残骸を去り抜け、足を取られそうになりながらも駆けていった。
「これ、今まで君がしてきたことの、お返しだよ?」
さらに走った軌跡には、瘴気を纏った短剣が等間隔に空中から打ち込んでいく。
それは、瞬時に藍霊の身体を腐蝕させていった。
「(……まっ、同じようにはいかないよね…!)」
それでも術印の浸透を拒むように、短剣を突き立てた箇所から幽霊たちが剥離し、次々と零れ落ちた。
瘴気を警戒しての反射的な断捨離に近い。
自らの一部を削ぎ落としてでも異物を排除しようとする、骸霊の長の防衛本能。
それでも、止まるわけにはいかない。
頭頂までは、まだ距離がある。
そう思った、その瞬間だった。
「……あれ…?」
足元の感触が、不自然に崩れた。
腕そのものが、生き物の筋肉のように蠢いていた。
進もうとした先の斜面がゆっくりと立ち上がり、断崖へと姿を変える。
「うわっ!?」
慌てて身体を捻り、崩れかけた足場へ着地する。
だけど、それで終わらない。
今度は左右から巨大な隆起が盛り上がり、逃げ道そのものを挟み込むように閉じ始めた。
「(……道、無くしてきてる…)」
最初に登った時とは明らかに違う。
藍霊はただ暴れているわけではない。
『頭』を目指していることを理解し、その道だけを潰している。
「……!」
その直後、背後の足場が爆ぜた。
振り返ると、その爆心地から溢れ出した藍霊たちが、濁流のように一斉に押し寄せてきている。
無数の青白い腕と身体。
それらが一つの巨大な波となり、こっちを飲み込もうと迫ってくる。
「ちょっ……数、多っ!」
繊維状にした瘴気で向かってくる幽霊たちを薙ぎ払う。
けれど、その隙間は一瞬で埋まった。
斬っても斬っても。
砕いても砕いても。
新たな幽霊が腕の内部から這い出してくる。
加えて、バラバラになった部位も周囲のものと結合して瞬時に元に戻り、意思を持つように堰き止めようと向かってきた。
「(『腕そのものが巣みたいになってる…』)」
まるで、巣穴から出る蟻のように止まることはない。
いくらこの藍霊を作り出すのに魂を使ったのか、想像すらできないほど。
地面だった場所が波打ち、身体を飲み込もうとしてきた。
そこからも手が伸び、ガッチリと足を掴まれる。
「ねぇ……離さないでよ?」
腕の外へ放り出されそうになった身体を、足首へ絡みついてきた幽霊を逆に掴んで引き戻す。
崩落していく腕の表面を蹴り、砕けて宙へ浮いた岩塊へ跳び移る。
着地した瞬間、瘴気が爆ぜさせ、幽霊たちをまとめて消し飛ばす。
「はははっ!やっぱり届くじゃんか、この高さでも!」
沈む前にさらに一段高く跳躍し、飛びかかってきた幽霊を踏み台にして前方へ身を投げる。
背後では踏み抜いた腕が崩れ、灰霊の濁流となって斜面を流れ落ちていく。
最後は切り立った段差を両手で掴み、身体を引き上げる。
「……これで、同じ景色…」
眼下には、藍色の燐光を渦巻かせた巨大な空洞。
つい先ほどまで僕を見下ろしていた藍霊の頭上が、ようやくその視界と同じ高さに並ぶ。
下に視線を向けると、見渡す限りの森は、命を抜かれたように灰へ沈んでいた。
そのまま着地し、背後から瘴気を纏わせた短剣を振り上げる。
「……ッ!?」
でも、ここまでだった。
短剣を表層へと突き刺そうとしたその数センチ手前。
眼下にある藍霊の頭頂。
その表層を透過するように、何かが現れた。
警戒が緩んでいた死角からの、完全なゼロ距離。
回避の思考すら許さない速度で放たれた『黒槍』が、左肩を深々と貫く。
「いっ……た…?!」
肺の空気が無理やり押し出され、同時に鋭い痛みが混濁する。
骨を削る不快な音と一緒に、身体が葉のように宙へと弾き飛ばされた。
その勢いのまま足場を失い、身体が弾かれたように後方へ放り出される。
そして、空中に放り出された僕を待っていたのは、無情な重力の抱擁と逃げ場のない殺意。
逆さまになった視界の先で、藍色が動き出す。
巨体に見合わない静かな加速。
藍霊が、こっちを落とすためだけにその場から消えた。
「(い、一瞬で…!)」
周囲に目など存在しないはずなのに、皮膚を直接灼かれるような執拗な『視線』。
それが、四方八方から網のように縫い止める。
見えない目が、無防備な落下をあざ笑うように固定している。
逃げられず、空中で姿勢すら制御できない目の前で、藍霊の腕がドロリと形を崩した。
次の瞬間、それは無機質な腕は鞭へと変貌を遂げる。
反射的にこっちも短剣を手にし、それを振り抜く。
でも、目の前の動きが現実の速度を追い越してくるように。
しなり、空気を爆ぜさせ、藍色が視界を埋め尽くした。
「ーーーー」
まるで、音すら置き去りにする衝撃。
身体が押し潰されるような重圧と共に、視界から藍霊と空が消えた。
バキバキと、抵抗する大樹を何十もまとめて粉砕しながら、身体は森の深部へと叩きつけられる。
脆い灰に変わった木々が、勢いを殺すクッションの役割を果たすわけがない。
「ぐっ……あぐっ…!」
ギリギリで瘴気を外装のように纏わせ、何とか身体の飛散だけは免れた。
けれど、衝撃までは殺しきれない。
脳を直接かき混ぜられたような強い眩暈。
上下感覚を失った視界の先で、巨大な藍色の影が、逃がさないと言わんばかりに再び空を覆い尽くそうとしていた。
「ハ、ァッ…!」
鈍く痛みが走る側頭部に手を置きながら、ふらりと立ち上がる。
肩に空いている穴は、そこから反対側の景色が見えるように深いものだった。
でも、たとえ傷付いたとしても、そこからはあの血だけは流れないよう、身体をいじっているから問題はない。
「それ、じゃあ……古城に向かう前に…」
それに、こうしてかなり無理したおかげで、『好機』はできた。
袖の中に隠した手のひらの中、そこに収まるほどの大きさの本が出現させる。
「無念を晴らす1発は、代わりにお願いするよ…」
僕の烙印が持つ力の一つ。
それは『一度僕が足を踏み入れた地点への、対象の転送』。
僕を弾き飛ばし、さらに巨大すぎるがゆえに、今は自分の『頭上』という死角に無頓着であろう藍霊。
その頂点、僕がさっきまで立っていた座標へ、予測不能であろう『想定外』を叩きつける。
物理的に触れられるのなら、これ以上適任はいないであろう秘密兵器が、僕らにはある。
「『フルド』…!!」
そうして藍霊の頭上、その直上。
やがて、無であるはずの空間から、パズルのピースが噛み合うようにその姿が形を結ぶ。
そこに、岩石と金属が軋み合うような不穏な重低音と共に、フルドが音もなく現れた。
「(『………』)」
「(………あれ?)」
術印を使って思考を共有してみても、言葉は返ってこない。
加えて、逆光に縁取られたその表情は、陽光を背にして影に沈んで見知ることもできない。
けれど、その奥で唯一鈍い光を放つ『瞳』を見た瞬間。
ゾッと心臓を直接掴まれたような錯覚に陥った。
鋭く、冷たく、そしてどこまでも暗い。
まるで幽霊のように生気を削ぎ落としたその眼差しは、いつものフルドとは大きく異なっている。
「……!?」
溜めも、予備動作すらなかった。
フルドが空中で無造作に腕を振り上げ、真下の藍霊へと叩きつける。
拳が触れた刹那、空間そのものが軋みを上げて爆ぜた。
コンマ数秒、音を置き去りにした衝撃。
それが藍霊の巨躯を真っ向から叩き落とし、逃げ場を失ったの膨大な質量は、空から山が零れ落ちたかのような勢いで地表へと落とされた。
「(『おおおぉぉっ…!?マジ、かよっ…!?』)」
その余波は、僕からかなり離れているアベルへも届いたようだった。
今の一撃でも完全な崩壊には至っていない。
けれど頭上を起点に全身がヒビ割れ、あの巨大な藍霊の身体が地に伏した。
「は、はは……っ」
まだ若干クラクラしていた視界で見上げる僕の頬を、灰や砂煙が凄まじい風圧が吹き抜けていく。
これには、乾いた笑いしか出てこない。
不意打ちとはいえ、あの巨体をただの自分の身一つで真っ逆さまに叩きつけた。
「本当に、良いね……」
これ以上ないほどの、劇的な光景だった。
偶然だったとはいえ、こうしてフルドと骸霊の長を巡り合わせたことによって起こった、凄まじい反応。
「本っ当……最っ高だね!!」
まだ、幽霊たちも自分たちに何が起きたのか把握しきれていないであろう、この一瞬。
弾き飛ばされる際に藍霊の身体に突き刺したままの短剣を起点に、潜ませていた瘴気を一気に爆発的に増幅させる。
粉々に砕け散りそうなほど地面に伏し、ひび割れたその残骸を一瞬で瘴気が膨張して飲み込む。
そうして、行き場を失った瘴気は火山の噴火のように赤黒い噴煙となって天高くへと噴き上がった。
「(『アベルっ!』)」
「(『分かって、るっ…!』)」
僕の声にアベルもすぐに応えてきた。
地響きと共に大地が波打ち、せり出した岩肌が空中へと道を作る。
爆煙を切り裂き、落下してくるフルドを保護するようにその足元を、アベルの術印が正確に捉えて持ち上げた。
それに降り立つと、フルドが初めて僕の方を向いてくる。
「(『あっ………え、えっと…』)」
いつもの、どこかたどたどしい声が聞こえてきた。
表情までは見えないけど、大きく手を振って見せる。
「(『ふふ、助かったよー、フルド!』)」
「(『う、うん…!ぶ、無事でいてね…!?』)」
短く、焦燥の混じった言葉を残すと、フルドは盛り上がった地面を爆砕せんばかりの踏み込む。
身体は遥か遠くへ飛び上がり、森の遠方へと文字通り消えていった。
本当に、一瞬で姿が見えなくなった。
「(『今の、すごかったなぁ…』)」
高鳴る余韻すら置き去りにされたような感覚。
自然漏れ出た呟きが、静まり返った森にこぼれる。
きっと骸霊側も気配に気付いてはいただろうけど、何が起こったのか、反応する前に逃げられた。
木々のざわめきすら、フルドを追いかけているように思える。
「(『はぁ……実際見てみて、どうだった?古城の物理担当は…?』)」
ふと、声が聞こえてきたけど、アベルも今のフルドには呆気に取られた様子だった。
流石は古城の術印使い、これがギャップの暴力?
諸事情があるとはいえ、灰なんかに収まっちゃいけないレベル。
「(『……うん。こんなにすごいなら、最初から僕たちと一緒に戻ってきても良かったかも?』)」
今の攻防でできた大小様々な傷口から、血の代わりに瘴気が滲む。
肩を貫いた穴の縁から赤黒い瘴気が滲み、裂けた肉がゆっくりと閉じ始めた。
「(『なんか見たことないくらい、殺気立ってたしな……あんな顔、するんだな…』)」
さすがのアベルも、あのフルドは初めてだったらしい。
やっぱり怨みの力はすごいものだと、ひしひしと感じさせられる一幕だった。
「(『でもとりあえずは……勝った、のか?』)」
アベルの声が、まだ灰が舞う森の中に落ちる。
残っているのは崩れた木々が軋む音と、空気中を漂う瘴気の僅かな揺らぎだけだった。
視界の先では、あれほど巨大だった藍霊の残骸が静かに沈んでいる。
完全に消滅したわけではない。
けれど、先ほどまで森全体を覆っていた圧倒的な気配は薄れ、ようやく訪れた静寂が、この戦いの終わりを錯覚させていた。
「(『うーん……』)」
返事をしながら、ゆっくりと周囲へ視線を巡らせる。
静かな余韻の中。
本来なら、少しくらい安心してもいい場面なのかもしれない。
「(『その微妙そうな反応、やめろよな…』)」
アベルの呆れたような声が響く。
確かに、目の前の脅威は退けた。
フルドの一撃によって、あれほどの巨体を地に伏せることもできた。
「(『でもさ?まだ、『本人』が出てきてないんだよね…』)」
「(『……本人?』)」
その問いに、僕は視線を上げた。
森の奥。
爆発によって舞い上がった砂煙の向こう。
未だ消えきらない藍色の残滓が、まるで何かを待つように静かに漂っている。
「(『……うん。今まで暴れてたの、あっちからしてみれば、全部前座みたいなものだろうからさ?』)」
「(『……はっ?』)」
自然な声が出た。
あの異様なまでの執着。
あの巨大な身体に込められた、濁った意思。
「(『あれが、前座…?』)」
その時、視界の端が鋭利な冷気に触れた。
森の木々も鳴ることを忘れたかのように一度だけ強くざわつき、そのまま凝固する。
「(『……どうした、ディオス?』)」
「(『いやぁ……真打登場?って言えばいいのかなぁ…』)」
気配のした方を振り返って見る。
爆ぜた瘴気の残滓、まだ冷たい熱を帯びているはずの空間。
その一点だけが、夜を零したように色を失っていた。
「……やっと、出てきてくれたね?」
音もなく地面を通り抜け、揺らめく影。
物理的な重さを一切持たず、けれどそこにあるだけで周囲の命を沈黙させるような絶対的な支配の質量。
「………」
あの黒い幽霊が立っていた。




