〈第21話〉ラベルと再定義
「やっぱ……ずっと引っかかってんだよなぁ…」
「……?何がかな?」
湖の開けた視界が背後に消え、再び木々に覆われた薄暗い森へと足を踏み入れた。
湿った土と古い葉の匂いが鼻を突き、頭上では重なり合った枝葉が風にざわめいている。
その歩調に合わせるように、アベルが重い口を開いた。
「いや……存在を消されたり、罪を反芻したり、そんな重い罰を受ける。そうやって裁かれるのが分かっていんのに、何でディオスの世界では罪人が絶えないんだ?」
「えーっと……そうだねぇ…」
僕はしばらく顔に手を当てて、今までの経験などを交えながら考えてみた。
行く先を見据える僕の視界を、木漏れ日が不規則に横切っていく。
「……1番の理由は、それを知っているけど、知っていても衝動には勝てない。ましてや知らないのなら、今の感情こそが全てってわけで…」
これも、概念的な域となる死後の話。
普段は考えもしないこの領域に、いきなり引きずり込まれたなら、そうなる。
「2人だって、自分の死んじゃった後のことなんて想像しないでしょ?」
「た、たしかにそうかも…?」
フルドは足元の突き出た木の根を避けるように視線を逸らし、乾いた声を漏らす。
意思とは無関係に出たというのが見て取れる。
「ふふ……なら、そもそも『何を持って罪人』と呼ばれるようになったんだろうね?」
「えっ…?」
間を置かず放ってみたその問いに、空気が一瞬止まる。
フルドから返ってきた声が、質問の突拍子さを物語っていた。
「い、いきなりだね…?」
「まーた、哲学っぽい話かよ……勘弁してくれ…」
アベルは額を掻きながらそうぼやいた。
吐息混じりの声には、冗談めかしつつも本気で困惑している色がにじんでいる。
「いやいやぁ〜……これ、多分さ?」
その反応を見て不意に笑みが溢れた。
けれどこの問いには、すぐには2人の反応は返ってこない。
「罪人の話っていうより、『罪』そのものの話なんだよね。」
「んなこと言われてもな…」
しばしの間、黙々と歩く足音だけが、不協和音のように重なっていた。
「……まぁ、それこそ…」
そして、アベルは重々しく口を開いた。
自分でも納得しかねる答えを言葉にしながら、こっちの反応を探るように視線を送ってくる。
「お前が俺に話していた『感情』に起因するんじゃないか?というか、さっき罪を引き起こす原動力になるって、お前自身が言ってたことだしな…」
そ声は低く響き、落ち葉を踏む音に混じって森の奥へ吸い込まれていった。
木々の隙間から差し込む鋭い光が、眉間を白く飛ばしている。
「あっ、覚えててくれたんだね!」
「か、感情が…?」
アベルの声に軽く言葉を返す。
けれど、それに対してフルドは若干納得していない表情を見せていた。
「そ、そう言われても……僕はやっぱり『感情が悪い』って言い切るのも……違う気が、するし…」
「うんうん!フルドの言うことも、もっともだよ。」
フルドが足もとを見つめながら答える。
小枝を踏み折った音が、妙に乾いて響いた。
「……『罪』ってさ、本来は『結果に貼られるラベル』みたいなものなんだよね?」
歩きながら、片手をひらひらと振って見せる。
頭上の木々の隙間から光がこぼれ、指のあいだからちらちらと抜けていく。
「盗みをすれば罪人、人を殺せば罪人。煩悩を持ったり、とある世界じゃ『人は生まれながらに罪人だー』っても言うんだ?」
「……ん?それって、俺の…」
「う、生まれながら、って……そ、それってつまり、最初からダメってことなの…?」
僕の言葉にフルドが眉をしかめる。
吐き出す息が少し荒くなったように見えて、森の湿った空気がそれを強調した。
「その世界では、そうなるね。つまり、そこでは『行為』じゃなくて『存在』そのものが罪のラベルが貼られるってわけ。」
「こ、行為じゃなくて……存在そのものが…?」
口に出した瞬間、どこかで鳥が羽ばたいた。
言葉をあざ笑うように、羽音は森の奥へ消えていく。
「そして、倫理とかはまた違う。特に国とか思想とかってさ?『ここから先はダメ』って線を引かないと壊れちゃうんだよね…」
指で空をなぞるようにして笑った。
「だから、縦長の構造を守るために『ここからが罪でーす』って線を引く……でもその基準は、時代とか文化でコロコロ変わるけどね?」
その指先が光を遮るたびに、目の前に落ちる影が濃さを増す。
「……どう、面白いでしょ?同じ『罪人』でも、誰の視点に立つかで全然違うんだ。」
「で、でもだよ…?」
フルドが、迷うように視線を伏せる。
「だ、誰かを傷つけた人だって、やっぱり最初から『悪人になろう』としてたわけじゃない……ことも、あるんじゃないかな…?」
風よりも細く、けれど森の空気に確かに刻まれていく。
「もしそうなら、『罪人』って言葉で全部まとめちゃうの、少し怖い気がする……」
一瞬の沈黙。
葉擦れが埋め合わせるようにざわめいた。
「……そうだね。」
フルドの言葉には、的を得ていた。
自分がそれに該当していないかもだけど、そうなってしまった人たちを、よく知っている。
「今話したこと……全部まとめちゃうと、色んな世界で、罪人であることと罪人でないことが『同時に成立』しちゃう…」
ぽつりと落ちた言葉に、森の中の空気がわずかに沈んだ。
頭上の枝葉が風に揺れ、まだ暖かな熱を残した匂いがふっと漂う。
「赤子だって『生まれながらに罪人』なら無垢は存在しないし、逆に『罪人じゃない』って考えるなら、誰かを裁くことすらできない……そこに、悪意があってもなくても…」
足もとで落ち葉がぱり、と鳴った。
その音が妙に重たく響く。
「うーん……フルドのいう通りだよ!」
改めてフルドに視線を向ける。
両手を開いてヒラヒラと左右に振った。
「ほら!これって、歪さをつけば、ボロボロとおかしなところが出てくる!」
「え、えっと……」
「はぁ〜〜、やっぱり分っかんないな…」
フルドの気の抜けたような声と共に、アベルがため息と共に吐き捨てるように言う。
そうして立ち止まり、頭を抱えるように髪をくしゃくしゃとかき回した。
「……で、結局どっちなんだ?何が、結論なんだよ…」
その声音には苛立ちよりも、理解できないことへの困惑が優っていた。
これに対する答えは、物凄く単純明快なもの。
「………『どっちでもあるし、どっちでもない』?」
肩をすくめてそう答える。
軽い仕草に見えて、その裏に重い含みがあるのを二人は察していたようだった。
「消された存在にすら、罪という言葉を与える余地がなくなっちゃう、かな?」
「いや……待てよ。」
僕の言葉にアベルが立ち止まった。
そして、喉に引っかかったような違和感を吐き出すように言葉を続ける。
「…結局それ、『裁く側の都合』でどうとでも変わるって話にならねぇか?」
静かに言葉が落ちる。
枝葉を揺らした羽音だけが森に残り、その余韻が妙に長く耳に残る。
まるで今の言葉を、誰かが聞き逃さなかったみたいに。
「そんな曖昧なもんで、お前って人を罪人扱いしてんのかよ…」
「あはは……その通り、になるかな…?」
指を重ね合わせながらそう呟く。
けれど、その答えにアベルは納得した様子を見せなかった。
でも、当然だと思う。
自分だって逆の立場なら、きっと同じ顔をしている。
「極端な話、『罪』っていうのは、誰かが『これは間違ってる』って決めた瞬間に生まれるものだからね?」
湿った風が吹き抜け、枝葉がざわりと揺れた。
「世界が変われば常識も変わるし、時代が変われば善悪も変わる。昨日まで罪だったものが、今日には称賛されることだってある。」
言い終わる頃には、風の音も消えていた。
残ったのは三人分の呼吸音だけ。
「……じ、じゃあ、やっぱり滅茶苦茶じゃないの…?」
フルドが言葉を詰まらせるように言う。
その顔には戸惑いが浮かんでいた。
「そ、そんな曖昧なもので、『裁かれる側』は…」
言葉の続きを探すように唇が震えている。
けれど、うまく形にならない。
「うーん……そうだよねぇ…」
これには否定はできなかった。
いや、自分なんかには否定の言葉はない。
「でも、多分みんな……その『滅茶苦茶な曖昧さ』に耐えられないんだと思う。」
「……え?」
フルドが顔を上げる。
その反応を横目で見ながら、自分の指先へ視線を向けた。
何かを掴もうとしているわけでもない、ただそこにあるだけの手。
「人って、『何が正しくて何が間違いか分からない』状態を、思ってる以上に怖がると思うからさ…」
歩きながら、そんな自分の指先をぼんやり見つめる。
「だから、『線を引く』んじゃないかな?ここからは罪、ここまでは罪じゃないって。」
指先の向こうで木漏れ日が揺れる。
境界なんて存在しないはずなのに、光と影は綺麗に分かれて見えた。
「それが間違ってるかどうかは置いといて、そうでもしなきゃ、人って安心して生きられないから…」
一瞬、沈黙。
日差しが木々の間からチラチラと漏れ出る。
「つまりー……」
そこで、僕は少しだけ肩をすくめた。
「だから人って、観測者次第で『罪人』にも『無罪』にもできちゃうんだよね!この矛盾も、結局は理解の外に放り出されるんだ〜…」
曖昧に笑う僕の声に、短い沈黙が落ちる。
枝の先から鳥が飛び立ち、羽ばたきの音がその沈黙を切り裂いた。
「な……何それ…!?」
「いや、こう、なんて言うか……バカみたいな結論だな…?」
「ハハハッ、まさにその通りなんだ!」
2人が小さく鼻を鳴らしたり、驚いたりといった反応を見て、僕も軽快に笑ってみせる。
そう、本当に理解できないものを、神は矛盾だらけで作り出した。
だからこそ、罪人という存在も視点を変えれば、矛盾と歪な合理性を煮詰めたようなもの。
「だから、僕の世界の神は『感情を持って道理に反した』ことを犯した人間を、『罪人』と定義付けた。曖昧だった『罪』に、無理やり一本の線を引いたんだ?」
指を突き立ててなぞるように横動かす。
そして最後に、その先を自分につけつけた。
「そして、その該当者の1人が僕ってわけ!」
僕の言葉に、二人は顔を一瞬だけ見合わせる。
ほんの少し、互いの目の奥に不安と戸惑いが交錯した。
「ね、ねぇ……そ、それって、僕たちもって……こと…?」
フルドの声が、震える空気の波となって届く。
「あー……それはー…」
答えを返そうとしたけど、言葉が一瞬詰まりかける。
出なかったというより、どこから答えればいいのか分からなかった。
自分がこの世界を『物語』と言った時とはさらに違う、どんどんと境界が曖昧になる感覚。
視界の端で、木々の輪郭が一瞬だけ、インクの滲みのようにブレた。
「たしかに、もっと外側の話をしちゃったら……その考えは繋がってる部分は、ある…」
積み上げられた本の山を想像しながら、『世界の層』を解体していく。
これは延々と続くような、終わりの見えないもの。
「でも、さすがにこれは〜……」
フルドの言った通り、2人だけじゃなくて、この物語に存在する人たち全てに適用されるかもしれない。
だって、その多層の先。
一段、また一段。
世界の外側を想像するたびに、足場が増えていく。
誰かが物語を書く。
誰かが読む。
誰かが眺める。
そのさらに上。
そのさらに上。
そのさらに上。
「………」
見上げたわけでもなく、振り返ったわけでもない。
それでも、確信だけはあった。
気が遠くなるような入れ子構造のその先。
読者は、そんな最前列の観客席の位置に居座っている。
「……いや、ごめん…」
思考を振り払うように小さく首を振る。
考え始めると駄目だ。
どこまでも続いてしまう。
世界の上に世界があって、その上にもまた世界があって。
誰かの物語の上に、別の誰かの物語が積み重なる、終わりの見えない入れ子構造。
「……正確には、『適用されている』、かな?」
口から零れたその言葉は、自分でも驚くほど軽かった。
けれど、確信だけが妙に鮮明だった。
全てを、一番いい席で見続ける、あの神に観られるという事実だけは。
「ハァッ!?んだよ、それ…!」
「そ、それは、おかしいんじゃないの…!?そ、そんなの……関係あるなんていきなり言われても、納得できないって…!」
アベルの怒鳴り声と、フルドの異議申し立ての声が空気を震わせる。
けれど、反射するはずの余韻すら聞こえない。
「(………違う…)」
2人の言葉ではなくその先。
何かが引っ掛かるような違和感があった。
気付けば、自分の中で自然音が、この世界を構成しているものから音が消えた。
まるで、この物語にある何かが、拒絶を吸い込んでしまったかのように。
「そう……そうなんだよ!」
一陣の風が不自然な角度から吹き抜け、モノクルの紐から垂れる宝石を揺らす。
同時に弾かれたように勢いよく振り返り、満面の笑みでその言葉を肯定した。
「色々言ったけど、これはあくまで僕の世界の話!確かに繋がってはいる…」
自分でも分かるくらいに言葉が早くなった。
「繋がっては、いるんだけれど…」
フルドの言う通り、物語の外の倫理なんて、今ここの物語とは何の関係もない。
今を生きているこの時間なんかに、介入できない。
「……そんなので、踏み潰すなんてさ…」
いや、関係があってはならない。
「だって、もし『外側』の価値観だけで全部を決めつけ始めたら……ここであったことも、必死に生きたことも、結局は全部ただの『作り物』の一言で片付いちゃうじゃん…」
言葉が溢れたその拍子。
頭上の枝から一枚の枯れ葉が、スローモーションのように目の前を落ちていった。
「そうだよ……そんなの、物語そのものを無視した無粋なノイズだし、純粋に物語を穢す野暮なものだよ…!!」
言葉が森の奥へ沈んだあとも、誰もすぐには動かなかった。
枝葉の揺れる音だけが、張り詰めた空気を遠巻きに擦っていく。
「…………」
アベルが眉を寄せたまま、わずかに息を呑む。
冗談めかして笑い、煙みたいに掴めないまま、話を宙へ逃がしていたはずだった。
なのに今は違う。
「ディオス……やっぱり、お前さ…」
低く落ちた声が、静寂に沈む。
「……なんで、そんな必死なんだよ…?」
瞬間、足がほんのわずかに止まった。
隙間を抜けた冷たい空気が頬を撫でていった。
それなのに、ヒリヒリとする鋭い感覚だけが静かに広がっていく。
「いや……今の、また急に熱っぽ過ぎだったんだよ…」
頭をかきながらもアベルの視線は僕に固定されていた。
その問いに、身体がほんのわずかに揺れる。
フルドもまた、不安げに視線を向けてきた。
「ねぇ……ディ、ディオス…?じ、自分が認めてないだけで、本当はさ…」
そう言いかけてフルドが言葉を止める。
うまく形にできなかった。
けれど、引っかかった感覚だけは消えない。
「……君って、もう感情が…」
一瞬、風が止まる。
顔に貼り付けていたはずの笑みが、わずかに固まった気がした。
ここで初めて口を滑らせたことに気づき、反射的に自分の口を塞ぐ。
「ご、ごめん!」
2人から視線を外して足を止める。
だけど、一度放たれた言葉は、もはや引き返すことはできない。
「……とりあえず!僕が言いたいのは…」
振り返ると、二人の姿が木漏れ日の奥にくっきり浮かんで見えた。
枝葉の隙間から差す光が、タイミングを計ったようにサッと僕の顔を照らしてくる。
まるで、舞台装置が合図を送ってきたみたいに。
「結局、『罪』って言葉は、人を説明しきれないんだよ!」
声が落ち、二人の表情が強張る。
木々の隙間から降り注ぐ光が、目の奥にまで届いているのが分かった。
今の2人は、僕の言葉の一つひとつをきっと聞き逃さない。
「怒りも、欲望も、恐怖も……善意や愛情でさえ、狂気に変わる。いつかの罰よりも、今この瞬間の衝動に乗っ取られて…」
その一言に、2人の表情がわずかに動いた。
両者共に息を呑み込み、言葉を出せずに立ち尽くす。
まるで世界が聞き耳を立てているように。
「過去や未来なんて、霞んで見えなくなる…」
そう告げた瞬間、風が森を揺らす。
ざわざわと葉擦れが一斉に鳴り、言葉を呑み込むように森全体がざわめいた。
まるで、世界そのものが返答を拒んでいるかのように。
「人は理性で罰を知りながら、感情で罰を忘れるんだ……だから罪人は絶えない。いや、感情を持つ限り罪人は必ず生まれる…」
返事は返ってこないけれど、それでよかった。
言葉では届かない矛盾は、抱え込む方がより深く考えられると思うから。
「だから『罪人であることは、人間であることと同義』なんだ……これが、僕の世界の話…」
きっと、これからも罪人は絶えない。
それでも僕は、罪人を狩り続けなきゃいけない。
「まぁ……これが、僕の考えかな…?」
声が途切れると、森は静かになった。
さっきまで揺れていた風も止み、木漏れ日だけが淡く揺らめいている。
「「………」」
「厄介、だよね〜……物語の外側にいる、罪人とか神ってさぁ?」
言葉の終わりと共に、森を渡っていた風が吸い込まれるように止まった。
ざわめいていた葉擦れは一瞬にして圧殺され、森全体が息を潜める。
その無音が、余計に今の言葉を際立たせ、逃げ場のない真実として空間に固定した。
「……じゃあ、『お前』は何なんだ?」
「……『君』は、何になるの…?」
2人のその言葉は静かに、鋭利な楔となって森の空気を真っ二つに叩き割った。
『罪の定義』なんていう名前の壁を、跡形もなく貫通してきたその言葉。
「……えっ?」
頬の上を踊っていた木漏れ日の斑紋が、まるで映像が一時停止されたかのように、不自然な位置でピタリと静止した。
重力すらもが機能を忘れたかのような、恐ろしいほどの停滞が場を支配する。
アベルの鋭い眼光も、フルドの震える指先も、輪郭を無理やり剥ぎ取ろうとしているかのようだった。
「お前は感情を消されていて、でも罪人であることを自覚して、その罪償いとして他の罪人を追い続けている……やっぱ、おかしいだろ、それ。」
一歩、こっちに向かってアベルが踏み出す。
湿った落ち葉が、まるで断罪の音を立てて潰れた。
「……今までの言葉だって、そうだ。」
その踏みしめた地面から、現実の重みが僕に向かって波紋のように広がってくる。
「そう、だよ……それなら『君』は、何をどう思ってここに立ってるの…?だって、君の言ったことって……」
それ以上語るのを堰き止めるように、フルドは言葉を切り上げた。
その声と一緒に、森のざわめきが急速に遠のいていく。
風が止まり、かすかな鳥の声がひとつ。
間に横たわる『介入できない空白』だけが、耳鳴りのように膨れ上がった。
「………うん。」
視界の端で赤い光が鋭く反射している。
同時に零れ落ちたのは、応答と呼ぶにはあまりに平坦で、乾いた音だった。
視線を落とさず、ただじっと2人を真っ向から見据える。
だけど、ぼんやりとしか映らない。
まるで鏡を通して、自分の内側に広がる『底の見えない無』を観測しているようだった。
何より、2人の言葉と姿を見聞きして、頬が緩むのも感じる。
「何なんだろうね、僕ってさ?」
言葉だけが先に出た。
考えたわけでも、選んだわけでもなく、ただそこにあったから落ちたみたいに。
納得も、否定も、何もないまま、ただ音だけが自分の外に転がっていった。
未だに、本当の自分が誰であるかを知らない。
未だに、自分が過去に何をしたかも知らない。
「……まぁ、でもさ?」
何も知らず、あるのはただ自分の中には逃れようのない『罪』の質量だけ。
そしてそれが、何重にもなってラベルとして貼り付けられている。
今、自分の語ったことにすら当てはまらない、滑稽な外れたもの。
「これについては……僕も、いつか知ることができる日が来るのを、密かに楽しみにしてるんだー。」
残した言葉は、答えではなく自分だけを残す。
ただ、そこに『在る』ことの証明のように響いた。
「まだ、あんまり分かってないからさ?もし知れたらそれが、僕が世界に投げ出された『意味』になるのかもしれないからね…」
自嘲気味に肩をすくめ、手のひらを振って見つめてみせる。
「……でもさ。別に、苦しんでるわけじゃないんだ?だって、自分が何か分からないまま、生き続けるのって…」
一瞬だけ、言葉が止まった。
「……それってすごく、面白そうだと思わない?」
そうして言葉が終わると同時に、凍りついていた森が、深い溜息を吐くように再び動き出した。




