〈第16話〉それでも罪と呼ばれるもの
「はぁーー……お前の言う『烙印』の力について、少しは理解できた気がするよ…」
口の中で小さくなった飴玉を転がし、舌の上で弾ける小さな気泡を感じながら言葉を紡ぐ。
理屈で理解しようとしたところで、根源的な不安が消えるわけではない。
「それは良かったよ〜。」
こんな万能を平然と扱う存在が、目の前で笑っている。
その事実だけで、次に何が起こるのかを想像するだけで自然と表情が硬くなってしまう。
「なぁ……なら、他の罪狩りもお前と同じように…」
「うん。」
言葉が途切れたのと同時に短い肯定。
そうしてディオスは椅子に深く腰掛けたまま、当然のように頷いた。
「罪狩りは全員、この烙印を使うことができるんだ。」
「だよな……ーー!」
言葉の終わりと共に、世界が再び寝返りを打つ。
椅子や机の感触はそのままに、木造の壁が透過し、代わりに鬱蒼とした緑がせり出してきた。
再び戻ってきたのは、俺がこの世界で初めて迷い込んだ、あの森の景色。
「ま、またここかよ…?あんまり、嬉しくないんだよなぁ…」
「慣れた?」
これは正直、ディオスの言葉通りだった。
このルールを無視したような景観の転換に、もはや驚きよりも微かな諦めを孕んだ慣れが勝りはじめている感覚がある。
多分、慣れてなどいけないもののはずだが、勝手に生存本能が働き続けてしまう。
「そう、かもな……にしても、こんな馬鹿げた力を扱う奴がそんなにいるのか…」
「いやいや〜、僕が知っている限りでは、ここまでするのは『4人』くらいだよ?」
そう笑みを浮かべながらディオスは4本の指を上げた。
こんなに色々とめちゃくちゃな人間と、どういう関係なのか、こっちとしては強く気になる。
「それって、お前も含めてか?」
「ま、まぁー……うん!そうだね?」
ディオスは少しだけ視線を逸らし、曖昧な肯定を返した。
それにしても、この異常を引き起こせる存在が4人…
「……お前を含めて、ヤバい奴らは4人しか存在しないのか…」
「ヤバいとは、またなんて心外な!?これは……正確に言えば、『より本質的な罪狩り』が4人ってところかな?罪狩り自体は罪人の数だけ、ゴロゴロといるしねー…」
罪人の数だけ存在する。
それはつまり、この世界の外側。
ディオスが本来いるはずの世界の至る所に、無数の『観測者』が潜伏しているということ。
その事実に思考が追いつきかけた時だった。
「……?」
ふと、奇妙な違和感が胸を突いた。
だが、それはすぐにディオスの言葉に掻き消される。
「つまり、この物語でいうところの、『赤の術印未満の力を使う人』って言えば分かりやすいかなぁ?」
「あ、あー……なるほどな…?嫌に納得のいく、例えをくれたな…」
これは、あの人たちと自分の今の立ち位置を、如実に表したものだった。
正確、かつ残酷なまでに客観的な力関係の把握。
それが、ディオスがこの世界を俯瞰する『読者』であるという、何よりの証明のように思える。
「色々とふざけてるくせに、線引きだけは妙に現実的だな…」
「……そんな楽観的に見えるかな、僕…?」
唇に、自嘲めいた微かな笑みが浮かぶ。
けれど、今までの説明はよくこの世界の境界線を引いていた。
俺という第三者にすら、明快に状況を理解させる。
これは、どこまでもこの世界を『物語』として、一冊の本を捲るように眺めているからなんだろうと思える。
「というか……どういう経緯があれば、こんな馬鹿げた力貰えるんだよ?前世で世界救うレベルの善行積まないと、絶対無理だろ…」
「どうなんだろうねぇー……僕は自分の前世とか分からないけど、そういうのだったらいいのになぁ…」
不意に、ディオスの声の温度が低くなる。
罪狩りは、神に作られた存在。
なら、ディオスにも前世なんて本当にあるのか。
そもそも『前』という時間自体が、自分のように与えられた設定なんじゃないのか。
「まぁ………そうだな。」
自分はどうなのかと考えてみると、ディオスと変わらないのかもしれない。
物語として生かされているのなら、記憶にある前世の時間もただの設定程度のこと。
だが、それでも本物であると思い続けたい。
「これ、『基準』とかあるのか?この世界の場合は、結構簡単に色で分けられてるだろ?」
「……うん、あるよ〜。」
言い淀むようにディオスは遅れて言葉を返してきた。
そこに疑問を抱く間もなく、頭上の木々が風に揺れ、濃い木陰がその目元を塗り潰す。
「この世界では〜……最上級の術印は『赤』。それから段階的に『黒』『藍』『灰』と言った感じに分類されてるね?」
「あぁ、そうだ。だからお前らの扱う烙印には、どういうものが…」
木陰に沈んだ顔。
見えるのは、色を削ぎ落としたような薄い唇だけだ。
そこから、湿り気を帯びた重苦しい問いが投げかけられた。
「じゃあさ……術印は、何を基準に序列が決められているの?君、まだこの世界に来てからそんな経ってないはずだけど、そこら辺は把握してるのかな〜?」
「(……また、あんまり聞かれたくないとこを…)」
不意を突かれ、記憶の断片を必死に手繰り寄せる。
なんせ、まだこの世界に来てから全然知らないことの方が多い。
それでも、なんとか過去の記憶を呼び起こせた。
「確か……純粋な出力の大きさとか、価値で比べられるはず…」
以前聞いた内容を組み合わせながら、自分なりに言葉にしていく。
「俺は特例だけど、本来術印を使ってその強さを上の術印使いに見せて……それで、その強さは決められるって感じで…」
言葉を紡いでいくと、影はディオスの目元から離れるようにして消える。
そして、太陽の日が赤い宝石と一緒にディオスの顔を照らした。
「……!」
だが、それを見てハッとさせられた。
今のディオスは、赤に属する『ヴォルティート』として、ここに存在している。
そして、片眼鏡から垂れる紐を指に巻き付け、先の『赤い』宝石をさりげなく誇示するような今までの動作。
「……なんで、こんなことを聞いた?」
「えっ?」
こっちの言葉にディオスはそう言葉をこぼした。
だが、ディオスは明確に、自分よりもこの世界のことを知っているはずだった。
「まだ、あんま知らない俺なんかよりも……『読者』としてのお前の方が、普通にこういうものを理解してるはずだろ?」
きっと今まで主張するようにあの宝石を見せてきたのは、表す価値の大きさを理解しているからこそ。
そう。
この世界の読者であるというのなら、わざわざ今のことを聞く理由なんてない。
「あら……」
笑みだけが顔に貼り付いたまま、他の感情が綺麗に抜け落ちている。
まるで、表情の一部だけを切り取って貼り付けたようだった。
「何より、話が逸れてる。」
だが、その表情とは裏腹に、次の言葉を言うこと自体を躊躇っているようでもある。
だからこそ、烙印に対する興味が自分の中で強くなっていった。
「……俺が聞きたいのは、お前の持ってる『烙印』って力についてなんだぞ?」
深く椅子に腰掛けて、正面からディオスを見据える。
お互いに声を発さず、自然音だけが少しの間、この空間を包み込んでいた。
「……ふふ。なんだか君の視点、読者側に近づいていってるね?」
「……!」
不意にディオスが笑みを浮かべながら口を開いた。
その言葉を聞いて、自分の眉もピクリと反射的に動いた感覚を鮮明に受け取る。
ディオスが言っていたように。
本当に自分の『主観』が、段々無意識に書き変わっているのかもしれないと、また認識させられた気がした。
「なら……少し『前提』の話から、しよっか。」
諦めたように一度息を吐きながらディオスは、両手の指を橋のように絡み合わせた。
ゆったりと、品定めされるような視線の動きを受ける。
「たしかに『烙印』にも力の基準は存在しているよ。でも……どんな人が使えるかだけど…」
ディオスの声が、不意に熱を失う。
木々を揺らしていた風が弱まり、葉擦れの音だけが頭上で遠く鳴った。
片眼鏡の奥にある瞳が、じっとこちらを覗き込んでいる。
「……烙印にはね?」
一拍。
わざと呼吸を置いたような間が落ちる。
「僕ら罪狩りだけでなくて、『罪人も行使できる条件』があるんだ。」
「……はっ?」
突然向けられたその発言に、思考の歯車が異音を立てて噛み合わなくなる。
その疑問を飲み込むように、ディオスは矛盾を突きつけてきた。
「君が自分の力を『価値』で測るようになったみたいにね?」
穏やかな口調だった。
けれど、その言葉だけがやけに冷たく耳に残る。
まるで、自分でもまだ気付いていない『変化』を、ディオスだけが見透かしているように。
「……罪人、も…?」
「そうなんだ。」
そんな混乱している俺をよそに、ディオスは口を開いた。
そうして返ってきた肯定は短く、冷たかった。
「……条件さえ揃えば、罪人は烙印を罪狩りから奪うことができる。そして奪った烙印を、僕らと全く同じように、あるいはそれ以上に使いこなすことだってできるんだ?」
「……!?」
今の発言にまた生じた矛盾。
これには、自分も思考の衝突が巻き起こった。
今までの内容的に敵対関係にある罪狩りと罪人が、同じような力を扱えるという逆転現象。
「何、言って……烙印は、罪狩りだけが使うことができる特権みたいなものなんだろ!?何で、敵である罪人なんかが使えるんだ…!?」
思わず声が荒れる。
だが、ディオスは否定も嘲笑もせず、ただ静かにこちらを見ていた。
「その前提が、少し違うんだよね…」
ディオスの声から一切の虚飾が消える。
木々を揺らしていた風が止み、耳の奥で自分の鼓動だけがやけに大きく響いた。
「そして……そこに烙印の力の大きさと、扱うことができる権利を決める要素がある。烙印は、何も選ばれし者が持つ、特別な力なわけじゃないからね?」
「権利を決める要素って……何だよ、それ…!?」
喉の奥が渇く。
そして僅かな沈黙が、妙に長く感じた。
「これはねぇ……罪人を断罪するっていう、一見良い要素しかない僕ら罪狩りにとっての唯一の『汚点』でもあるかな…」
罪狩りの汚点。
その言葉が、耳の奥に嫌な熱を帯びて残った。
罪人が持ち、罪狩りが忌み嫌う、しかし両者を繋いでしまう共通の因子。
「流石に、今までの話と毛色が違いすぎる……何なんだ?何が、あるんだよ…!?」
そう言うとディオスは改めて座り直し、頬杖を作ってその右手に顔を乗せた。
どこからか運ばれてきた光が、穏やかな日差しとなって包んでくる。
この平穏な光景が、これから語られる内容をかえって際立たせるようだった。
「……分かったよ。」
その時、さっと肌寒さを感じる程冷たい風が吹き抜け、背筋が自然と張った。
だが、今はそれを深く気にする暇などない。
伸びてくる影に捉えられた部分が引っ張られるような感覚に陥る。
「罪狩りの汚点……そして、罪人が烙印を使うことができる理由について話してあげる。」
降り注ぐ陽光に変化はないはずなのに、場の空気が、物理的な重さを伴って沈み込んでいく。
ディオスの顔は再び計算されたように影に沈み、ただ、不気味な弧を描く唇の動きだけが、そ中で鮮明に浮き上がった。
「僕を含む4人の罪狩りは……」
冷え切った大気が元に戻る。
だが、影の合間から覗いたその瞳は、先ほどまでの軽薄さを完全に消し去り、底知れない鋭く深い色を宿していた。
「もう、とっくに『罰を受けてる』んだよね。」
「ッ……ゴホッ、ゲホッ…!?」
一瞬、思考が断絶した。
喉に引っかかった飴玉に、身体が拒絶反応を示す。
だが、咳き込みながらも、視線をディオスから逸らせなかった。
「わっ、大丈夫!?変なところに飴が入っちゃった!?」
「い、いい…!げほっ……それよりも、今のはどういうことだよ…!?」
耳には確かに届いている。
なのに、脳がその情報の受け入れを断固として拒絶していた。
風が凪ぎ、森のざわめきが止んだように錯覚する。
静寂を侵食するのは、耳の奥で早鐘を打つ己の鼓動の音だけだ。
「つまりね……僕も元々は、罪を犯した『罪人』と同じ存在ということなんだ。『罪狩り』って名前も、ただ聞こえをよくしたみたいなもの…」
ディオスの唇から零れ落ちた、決定的な矛盾。
断罪するはずの執行者と、断罪されるべき悪徒。
決して相容れない対極の存在だと思っていた境界線が、頭の中で音を立てて崩壊していく。
「じ、じゃあ……お前の烙印が、そんなデタラメな理由は…!?」
「それは……僕も罪人で、それ相応の『重罪』を背負っているからで……雨が降れば、地面は濡れるでしょ?でも、どうして降ったのかは僕にも分からないけどねぇ…」
思わず息を呑み、頭の奥で何かが崩れ落ちるような音がした。
風が止んだのか、森のざわめきさえ聞こえない。
背中を伝う汗が一筋、冷たく落ちていった。
「なら、烙印の強さの基準っていうのは……まさか…」
「……君が察した通りだよ。烙印の強さは背負った『罪の重さ』によって決まる。そしてそれは、もちろん罪人であっても同じこと。」
ディオスの顔に落ちていた木漏れ日の影が、雲の切れ間から覗いた陽光に追われるように、だんだんと晴れていく。
露わになったその顔は、先ほどまでと何一つ変わらない、穏やかで柔和な微笑を湛えていた。
「だから、烙印を扱うために必要なのは、善性でも資質でもなく、ただどれほど巨大な罪を犯したか……それだけだね?」
だが、真実を知った今の俺には、その平穏な表情こそが何よりも不可解で、恐ろしい『怪物』の輪郭に見えた。
ーー『罪狩りは罪人の数だけゴロゴロいる。』
違和感だったこの言葉の意味も、今は理解できてしまった。
「な、ら……お前は一体どんなことをしたんだ…!?お前の世界の神は、何を考えている?誰も彼も扱えるなんて、『不具合』にも程があるだろ…!」
「不具合……ははっ、たしかにそうかもね?」
自分でも制御できない感情が、怒声となって口から迸る。
見た目は、どこまでも自分よりも下にしか見えない。
子供っぽい仕草に、軽薄で生意気さすら覚える言葉遣い。
これらは『大罪人』という言葉には、たしかに不釣り合いだった。
「……なんで神って、こんな風に僕らを作ったんだろうね?」
だが、同時にこちらへ向けられる視線だけが、あまりにも異質だった。
人間を見ているというより、もっと別の。
決定的に異なる尺度で、こちらを測っているような感覚。
目の前に積み重なる『事実』が、思考をがんじがらめにしていく。
「僕を含めた4人の罪狩りは、今言ったみたいにそれぞれ罪を背負っている……けれど多くは、『自らの意思ではない』場合がほとんど。」
「……!」
それを聞いて、反射的に息を呑んだ。
「例えば……誰かに操られたとか、誘導されたりとか……そうするしか道がなかった、とかね?」
ディオスは静かに指を組み直した。
風によって揺れる髪が、チカチカと陽の光を遮るのを繰り返している。
「本当に、色んな背景があるんだよ?」
「な、なんだよ……じゃあ、お前もそうなんだな…?」
気付けば、椅子から身を乗り出していた。
「お前も……不可抗力で…」
それは多分、目の前の存在が、人の理解を超えた『怪物』なんかじゃなく、ただ運命に歪められただけの、『人間』であってほしかったから。
そんな風に、無意識にどこかで『そうであってほしい』と、言葉として滲み出ていた。
「それは違うかな。」
だが、返ってきた答えはその考えを切り捨てる。
静かなその言葉が、思考を止めた。
「……僕は、それらに該当していないみたい。」
自分の言葉を遮るようにして、少し声の大きさを上げてそう呟く。
何故か、その言葉を聞いて、こっちの退路が絶たれたように感じてしまった。
「全部、自分の意思として……そして『罪人』の考えが分かる存在であるからこそ、神から罪狩りとして生きる権利を与えられた、らしい…」
思わず椅子を倒しながら、距離を取る。
先ほどまでの底知れない畏怖が、より等身大で、生々しい生理的な嫌悪へと変質し、全身を駆け抜けた。
だが、もちろん逃げ道などない。
この世界は、目の前の存在によって作られてしまっている。
「だから、この役目はね……僕に与えられた唯一の『罪償い』みたいなものなんだ?」
じわじわとディオスの顔と声が、鉛のような重みを帯びて沈んでいく。
揺れる影が顔を隠すたびに、その心情の暗闇に、一歩ずつ引き摺り込まれていくような錯覚に陥る。
「どんな、ことを……お前は一体、過去にどんな罪を犯したんだ…?!」
震える声を絞り出し、問いを投じる。
ディオスが背負っているものは、想像力を遥かに凌駕している。
投げかけた質問さえも、飲み込んで消し去ってしまうほどに深く、濃い。
「えーっと……『分からない』んだよねぇ…?」
けれど、返ってきた答えは、こっちの想像していないものだった。
その言葉が心臓の奥深くまで沈殿していく。
木々のざわめきが遠ざかり、鳥の声さえも途絶える。
そして同時に、視界に入るすべての景観そのものにノイズが入った気がした。
「ただ『記録』として僕は、一度に数え切れないの命を奪ったみたい…」
空気は急激に重くなり、肺に押し込まれた冷気が動かなくなる。
『記録』という言葉が、頭の中で何度も反響するたびに思考がどんどん暗闇へと引きずり込まれていく。
これまで軽口を叩き、笑みを絶やさなかったディオスが口にした、あまりにも現実離れした罪。
だが、その目に嘘はなかった。
「あるのは、これだけで…」
その言葉とともに、静寂が深く沈み、影が異様に長く伸びる。
口の奥に残っていたはずの葡萄の甘みは、いつの間にか鉄臭い味へと変じ、舌に張り付いていた。
「でもそれが、僕の犯した罪だよ。」
まるでこの世界自体が、その罪をひっそり抱え込んでいるかのように揺れる。




