〈第15話〉秤は飴玉を転がす
「ごめん、やっぱり休憩させてぇ…」
木霊すようなディオスの声が聞こえる。
そして瞬き一つ。
気がつくと、目の前に広がっていたのは、今までの場所とは違う木造の室内だった。
「ま、また世界が変わった…?」
漂ってくるのは落ち着く古木の香り。
目の前にあったのは飴色に灼けた机、背を預けられることを待つ椅子。
窓の外には明るいの日差しが差し込んでいる。
あまりの落差に、長い悪夢から引き摺り出された直後のような、心許ない錯覚に陥る。
「いやぁ……やっぱり、烙印を使うと疲れるんだよね〜…」
すぐ傍らから軽い調子の返事が返ってくる。
見るとディオスが、目の前にある椅子に向かってズリズリと身体を引きずるように向かっていく。
「だから、少し座って話していいかな…?」
そう言ってディオスは、何事もなかったように椅子を引いて腰を下ろした。
日差しを横から受ける顔と瞳には、光が灯っている。
「……ほらほら。君の分の椅子もあるよ?」
ディオスはそう言って机を挟んで自分の前にある椅子を指し示した。
だが、俺の心臓は未だに速く打ち続け、喉の渇きも消えてはいない。
現実に戻ったはずなのに、身体だけがまだあの灰色の世界に縫いとめられているかのようだった。
「あ、あぁ……じ、じゃあ俺も…」
崩れ落ちそうになる身体を支えるように、机に両手を突く。
けれど、掌に残る冷たい机の感触が全てが夢ではなかったと主張していた。
「『箱庭』って、あるでしょ?」
疲れたようにディオスは、頬杖をつきながらため息を吐く。
箱庭という言葉を聞いて、今いるこの小屋自体がその枠組みに小さく押し込まれたような気がした。
「僕の烙印は、それみたいに『自分だけの世界を作り出す』ことができる……さっきみたいに世界そのものに異常を起こせたのは、自分が作り出した世界だったからだね?」
「な、なるほどな…」
あの圧倒的な質量を持ったような景観の変化。
その余波が、今もどっと身体の芯へ疲労として巡っていく。
「つ、つまりだ……元の世界だったら、今の異常が起きる心配はないってことで、いいんだよな…?」
アレが作られたものではない、本来の世界で使われるのは本当にたまったもんじゃない。
けれど、ディオスからは歯切れの悪い返答が返ってきた。
「あー……ちょっとそれは、言い切れないかも…」
それを聞いて、弾かれたように背筋を伸ばす。
心臓の奥底で、移り変わっていった世界の残滓がざわめき出した。
「おい!?話変わってくるぞ、それ…!?」
あの現実を塗り潰すような異質さが、もしこの平穏な日常に侵食してきたら。
喉元までせり上がる重苦しい予感が、泥のように胃に溜まる。
「……実はさ。この物語の世界に来たわけは罪人だけじゃないんだ?もっと別の、そして同じくらい根の深い『問題』があるんだよね…」
「別の……問題?」
思わず声を落とし、ディオスの顔を凝視する。
罪人という別の観測者のみだと思っていた問題に、新たな厄介ごとが追加された。
「うん……だから、その全てを取り除くためには、元の世界でも構わず使うことになるかもしれない…」
その表情はどこまでも澄んでおり、それでいて先を読み透かしているような不可解な笑みを湛えているだけだった。
「でも、これは君が心配する必要はないもの!問題の目星自体はついてるからさ〜…」
言葉の端々に含まれる余白。
何が『問題』なのか。
それがあることによって何が起こるのか。
なぜ、ここで口をつぐんで俺にそれを言わないのか。
「……まっ、君が深く考える必要はないものだよ。」
頭の中で色んなことを考えていると、ディオスは突如として目の前に古びた本を、空中へ無造作に出現させた。
学校で使っていた辞書の倍はある。
それが机の上に落下すると、連動するように部屋全体が地震に遭ったように大きく揺れた。
「……!?」
しかし、ディオスはそれに特に反応を返さない。
そして呼吸を置く間もなく、ディオスはその開かれたページの中へと、深々と自らの手を突き刺した。
「だから、今は休憩がてら水でも飲もうよ?」
静謐を破る軽やかな提案。
だが、やっていることがやっぱり普通ではない。
ページの中へ突っ込んだ腕を掻き回すような動きを、見ていることしかできなかった。
「んー………あっ、これこれ〜。」
思案するように声を唸らせていたディオスだったが、腕をページの中から外へ戻していく。
そして引き抜かれたのは、平穏な室内に似つかわしくない異物だった。
「よい…しょっ!」
再びテーブルを揺らし、目の前に現れたのは、無数の宝石が埋め込まれ、精緻な彫刻が施された黄金の聖杯。
博物館の硝子ケースに鎮座しているべきであろうその器であり、窓からの陽光を跳ね返し、室内の影を色濃く際立たせる。
「お、おい…!これ何だよ?!」
「あっ、ごめんごめん!急にこんな大きいもの出したから、びっくりさせちゃったよね…」
いきなり目の前に現れたそれに対して、すぐに説明を求める。
だが、混乱しているこっち打って変わって、ディオスは手首をぶらぶらと揺らしながら苦笑いを浮かべていた。
「これ、前に行った物語にあったもので……重量あるから、手首いわすんだよね…!?純金、だし…!」
ディオスは、歴史の重みすら宿していそうな杯を両手で持ち上げ、小刻みにプルプルと震わせている。
その姿とは裏腹に、杯が傾いた瞬間に見えたのは、底に溜まったどこまでも無色透明な液体だった。
「じ、純金って……絶対こんな用途にしちゃダメなもんだろ…!?あからさまに、国宝級に価値が高そうな…」
「ま、まぁ、たしかに…!?本来なら、聖水が満たされるべきものだけど……今の中身はただの水だから安心してよ…!」
見た目だけで触れる事すら躊躇するようなもの。
しかしディオスはというと、本気でこの杯でティータイムでも始めようとしていた。
「尚更だよ…!頼むから普通のにしてくれ!畏れ多いし、見てるだけでこっちの神経が磨り減る…!」
「えぇ〜、せっかくの雰囲気作りなのに…」
俺がそう言うと、ディオスが両手を震わせながら、黄金の杯を本の中に突っ込んで戻した。
そうしてまた、残念そうにしながら本の中に入った腕をかき混ぜる。
しばらくすると、再び何かを持って腕を引き抜く。
「じゃあ、こっちね?」
すると、今度はどこにでも売っていそうなガラスのコップに変わった。
テーブルと上に置かれると、カツンと聞き慣れた固く乾いた音が耳に届く。
「はぁぁぁ……これだよ、これ…」
見慣れた造形に思わず言葉が漏れた。
極端な落差に、こっちの気持ちにも何故か安心感が生まれる。
「この烙印は、出来ることがかなり多いんだ。今みたいに欲しいものを取り出したりできる。あとは武器を出したりとか〜、移動に使えたりとか〜……まぁ、色々?」
「な、なるほど……」
ディオス的に、今のは説明を兼ねての実演だったんだろう。
…だが、こっちとしては黄金の杯のインパクトが強く印象に残っているが。
「……こんな風に欲しいモノ取り出せるっていうだけでも、色んなとろこで生きてけそうだな…」
「実際、重宝してるからね!」
差し出されたコップを、手を伸ばして受け取った。
四方から透かし、光にかざし、微かな濁りさえ見逃すまいと何度も見回す。
匂いも、揺らぎも、異常はない。
「…………」
だが、ディオスが差し出すものが『ただの水』であるという事実。
それこそが、今の自分には最大の異常に感じられた。
「ふぅ〜……」
ディオスは両手を添えて、たてられた抹茶を飲むような所作でコップを持ち上げた。
そして構わず、喉を鳴らしながら中身を飲み込んでいく。
「あーー、生き返る〜…」
喉を鳴らして中身を飲み干したディオスだったが、すぐに姿勢を崩して机の上にぐったりと身を投げ出した。
今にも溶けてしまいそうな身体から骨を抜かれたような声を出し、満足げに目を細める。
「……本当か?本当に、ただの水なんだな?」
「べ、別にこれは何も入ってないから大丈夫だよ!それに本当に毒入りなら、こんなあからさまに渡すわけないじゃん…?」
理屈としては正しいかもしれない。
けれど、その観点と言い回しにはやっぱり違和感と不安が残ってしまう。
「なんか……口に入れた瞬間に中身を変えたりできそうで、本当に怖いんだよ、お前…」
冗談とも、本気ともつかない言葉は出来るだけ無視する。
しかし、喉の渇きも相まって、見れば見るほど口にしたい欲が肥大していった。
「……んぐ…」
警戒心を持ったまま、恐る恐るコップに口をつけた。
冷たさがスッと唇を、舌を、そして焼けるようだった喉を撫でていく。
……驚くほど、ただの水だった。
「………水だ…」
「でしょ?」
呆気ないほどの真実が、喉を通り抜けていく。
同時に緊張が解けたせいか、ディオスと同じように身体をだらんと伸ばしてみる。
「ほんっと……なんかお前といると、身体いくつあっても足りないな…」
それでも空になったコップの縁を見つめ、思考を整理しようとは努めた。
「……お前が出来ることって、他になんかあんのか?」
「うーん、そうだね……例えば、僕はもう一つ烙印があるんだ。」
ディオスの唇から溢れたのは、平穏を切り裂くような告白だった。
溶けかけていた身体が、無理矢理また型作られるような感覚。
「ま、まじか…!?これの他にかよ…」
「そうそう。君たちと出会う前に竜のことを消したのも、その烙印を使ったからだよ。」
その言葉が引き金となり、ディオスと出会う前のあの時の光景が鮮烈に蘇る。
「あっ、あれかっ…!」
どこまでも広がる野原と、点在する林。
のどかな景観を暴力的に塗り潰していた、あの巨大な円状の焦土。
それを見つける前兆となった、空そのものが鏡のように割れる衝撃。
ディオスを見つけ出せたのは、目印があったからじゃない。
空の果てから見下ろさなければ全貌を掴めないほど、あまりに巨大な『痕跡』が、そこに刻まれていたからだ。
「(……あんな、天災そのものみたいな傷跡を残せる力だ……二つ目だろうが三つ目だろうが、納得するしかない…)」
納得しようとすればするほど、背筋を這い上がるような感覚に襲われる。
同じ人の形をしただけで、やっぱり根本から何もかもが違うのだと実感させられた。
「色々実演してみせたけど……見てみて分かったでしょ?烙印は、この世界で使える術印とは性質が全く違うものなんだってことがさ?」
「あ、あぁ……嫌なくらい、よく分かったよ…」
声が乾いているのを自覚する。
目の前の存在を、無理やり理解しようとするほど、理解の外へと弾き出されていく感覚だった。
「それにしても……世界を創ったり、地表を焼き払ったり、とんでもないな……『罪狩り』ってのは、全員がお前みたいな化物じみた力を持ってるのか…?」
「ん〜〜、それはちょっと違うかな……んむ。」
否定の言葉と共に、ディオスは懐から小指の先ほどの『何か』を取り出した。
爪先で弾かれたそれは、綺麗な放物線を描いて開いていた口の中へと吸い込まれる。
「……今、何食った?」
「あっ、君も食べる?ちなみにこれ、別の世界の特産品飴玉で、僕が1番好きな葡萄の味だよ。甘いもの食べないと、人は脳みそが焦げちゃうしさ〜。」
ディオスは口をモゴモゴさせながら、無造作に残った包み紙を指先で弄ぶ。
だが、本能的にそれを口にしたいとは思えなかった。
「いや、いらねーよ……なんか、危ないもの入ってそうだし…」
「し、心外だねぇ!君、さっきの水は躊躇わずに飲んだんだよ?!そういうの溶かし放題の液体より、こういう固形物の方が異物を混ぜる難易度は高いと思わない…?」
『お前ならそれができそうなんだよ』、という言葉は一旦、自分の中に閉じ込めておく。
というか、いくら喉の渇きがあったとはいえ、ほぼノータイムで出されたら水を口にしたのは迂闊だった…
「た、確かにそうかもだけどな……やっぱ、いい…」
壮大な話をしていたはずなのに、リスのように頬を膨らませて飴を転がすディオスを見ていると、どうにも毒気が抜かれてしまう。
今までの足元がぐらつくような緊張感が、急速に霧散していくのを感じた。
「これ、美味しいのに……一粒でこう、脳の疲れがシュワッと蒸発するんだよ?」
「……本当に合法なやつだよな、それ?」
「前に行った物語ではね。」
「………」
えげつない問題発言が出た気がした。
意味合い的に、前の世界の基準で言えば口にしてもセーフだった。
つまり、今はどうなる…?
「おい、ちょっと待て!その含みある言い方すんの止めろ…!」
ぞわりと嫌な予感が背筋を走る。
しかし、ディオスは遠い目をして、どこかクラクラと陶酔したように続けた。
「そうそう〜……『やっぱり、これ無しじゃ生きられない!』って、現地のみんな喜んでたね?」
「なら、思いっきりアウトだろ!?」
「ハハッ!大丈夫、大丈夫!僕の烙印にはね〜…」
思わず立ち上がった自分を他所に、ディオスが再び『本』を机に広げる。
すると、紙面からじわじわと、血管が浮き出るように未知の言語が浮かび上がってきた。
「こんな風に、成分表示みたいに映し出せれるんだ!ほら、ここに無実の証明が〜……」
幾何学的で、どこか生物的な蠢きを感じさせる異質な文字。
これは自分にはまるで読めないものだ。
しかし、文字の悍ましさも相まってか、改めて口にしなくて良かったと思える。
「……で、なんて書いてあるんだ、これ?」
実際に口にした本人はというと、目を線にして困った表情になっていた。
「……ごめん。かなり前に行った別物語の文字だから読めないや…」
「読めないものを他人に食わせようとするな!」
「……あっ!?」
突飛な声を上げてディオスは口にした飴玉の包装紙を凝視した。
それに釣られて自分も見ると、包装紙にドクロみたいなマークが印刷されている。
「……おい、これ…」
「こ、これはデザインだよ…!パンクな感じの、オシャレな意図で……多分、大丈夫、なはず…」
「なんで食った後になって、本人が一番不安になってんだよ!ほら、今すぐ吐き出せ!手遅れになる前に…!」
慌てふためくディオスの背中を叩きながら、深い溜息をついた。
あんな意味不明な存在が、正体不明の飴玉一粒に怯えている。
「本当……違うって言ってたけど、俺から見たら十分神みたいな奴だよ、お前…」
どっしりと椅子に腰掛けて座って頬杖をつく。
口から漏れ出たその言葉は、すぐに今のディオスの姿で上塗られた。
「……いや、やっぱ今の見てたら全然そう思わなくなったけどな…」
「うーん……」
ふとした、無意識の呟きだった。
だが、その言葉が耳に届いた瞬間、ディオスの動きが止まる。
そして小さく、どこか困ったような、それでいてひどく遠い場所を見つめるような笑みを浮かべた。
「……それでも、神とは…やっぱり違うかな?」
喉の奥で飴玉が転がる、硬質な音。
窓から差し込んでいたはずの日差しが、急に色彩を失ったように感じられた。
「……なんでそこは言い切るんだよ…」
「やっぱり……どこまでも僕たちは、単なる『秤』で、罪人を裁くための存在。用意された、意思を持つ手段に過ぎないし?」
その声から、先ほどまでの温度が綺麗に削ぎ落とされていた。
感情を乗せないその響きは、静まり返った室内で、重苦しい合図のように木霊する。
「……でも。」
その呟きに呼応するように、ディオスの指先にあった包装紙の上にあるはずの飴玉。
それが、陽炎のごとく輪郭を失い消失した。
「たしかにその力は、使い方次第ではそういう類のようなことはできるよ?」
そして、その刹那。
俺の口の中に、『カロリ』と固く冷ややかな異物が転がり込んだ。
「……っ!?」
頬を緩ませながらも、目の色が死んだディオス。
見せつけるようにくしゃりと包装紙を指の間で握りつぶした。
それを見てサッと目の前が真っ白になる。
舌の上が泡立ち、弾けるような刺激が口内を支配した。
味覚の暴力に一瞬、意識が飛びそうになる。
「………ん?」
毒か、あるいは同等の危険性のある類のものか。
反射的に吐き出そうとしたが、その瞬間に『親しみ』がその動きを止めた。
「こ、れ……ただの炭酸入りの飴じゃねえか!?」
「ハハッ!言ったでしょ、脳の疲れが蒸発するってさ?」
ディオスの笑い声と一緒に緊張の糸がぶつりと切れ、全身から力が抜けていく。
その安堵はしかし、胸のざわつきまでは消してくれなかった。
古屋の窓を叩きつけた突風が、心の奥底に沈殿していた恐怖を無理やりかき混ぜていく。
「逆だ!もっと疲労感溜まったわ…!」
天を仰ぐようにして、深く椅子にもたれかかった。
目の前の人間の、あまりのバカバカしさに呆れが湧き上がる。
だが、同時に激しく波打っていた鼓動が、飴の甘みと共に少しずつ凪いでいくのを感じた。
「まぁまぁ……美味しいでしょ?」
ずっと、ディオスのペースに乗せられている気がする。
感情の乱高下で、また寿命が縮むような感覚すらあった。
「いや……」
だが、もし。
この『安堵』すらも、あらかじめ計算されたものだとしたら……
「んん………まぁな…」
……と考えようにも、反応したらそれにすら笑みを浮かべるのが目に見えそうだった。
だからその考えは口にしないまま、口内に広がる葡萄の味と一緒に飲み込んだ。




