当事者
原本は読めない。だが、原本を引用した契約なら、いくらでもある。
俺は査定室の隅に籠もり、過去の契約書を片端から引き出した。上位規則を参照した契約。その引用の一文を、一つずつ書き写していく。第何条を引いたか。どの付則に触れたか。断片は契約ごとにばらばらだ。だが同じ条文を引いた契約が三つ重なれば、輪郭が見えてくる。四つ、五つと重ねれば、文言そのものが浮かび上がる。
査定係の仕事は、いつもこうだった。全体は見せてもらえない。だから破片から組み立てる。誰も読まない脚注の、そのまた奥から。
二日、それに費やした。指が羊皮紙の粉で白くなった。追放まで、あと一日。
そして、見つけた。
ある古い契約の脚注に、上位規則の付則が丸ごと引用されていた。査定官の資格を定めた条文。俺はその一行を三度読んだ。
――付則第2条。査定官は、本契約の当事者であってはならない。
当事者とは、契約に名を記され、契約から利益または義務を受ける者。付則第1条にそう定義されていた。
つまり査定官には資格がいる。裁定する契約の当事者であってはならない。当事者が裁定すれば、自分で自分に有利な裁定を下せてしまう。だから制度はそれを禁じている。裁定する者は、外にいなければならない。
俺は処分契約書をもう一度広げた。
第7条。査定官の裁定を最終とする。査定官の定義は、この紙にはない。だからこの紙の外の――上位規則の付則が、査定官の資格を決める。
では、あの処分の査定官を名乗った男は、当事者だったか。
*
答えは、ヴォルグ自身が書いていた。
処分契約書の署名欄。査定官の側に、彼はこう添えた。「本処分は、俺の裁定として執行する」。それだけなら、まだ査定官の顔をしていられた。
だが、彼はもう一つ書いていた。別の紙に。遺跡調査の成果報告契約。当事者の欄に、ヴォルグ、と。俺の成果を、自分のものとして。
そして処分契約は、その奪った成果と地続きだった。俺の罪状は「無断接触」。俺が接触して守った2000枚の成果は、いまヴォルグの名義にある。処分で俺の等級を剥ぎ、口を封じることで、ヴォルグは奪った成果を確定させる。処分契約は、彼に利益を与えている。
付則第1条。当事者とは、契約から利益を受ける者。
ヴォルグは、処分契約から利益を受けていた。
――ならば、彼は処分契約の当事者だ。
当事者は、査定官であってはならない。付則第2条。
彼は査定官ではなかった。最初から。
*
背筋を、また、あの冷たいものが撫でた。
付則には続きがあった。同じ脚注の、最後の一行。俺はそれを読んで、しばらく動けなかった。
――付則第3条。当事者が査定官を僭称して裁定を行ったときは、その裁定を無効とし、僭称者を本契約の違反者として執行する。
僭称。資格のない者が査定官を名乗ること。
ヴォルグは当事者でありながら、「俺の裁定として執行する」と書いた。査定官を名乗った。付則第3条の言う、僭称だ。
その帰結は、一行で書いてあった。僭称者を、本契約の違反者として執行する。
処分契約の違反者。それは、もう、俺ではなかった。
俺は、羽根ペンを置く手が少し震えるのを感じた。怖かったのではない。むしろ逆だった。この契約は最初から、執行する相手を間違えていなかった。ただ、誰も正しく読んでいなかっただけだ。
書かれていない一行。査定官を定めなかった、あの空白。あれはヴォルグを守る空白ではなかった。ヴォルグを執行する空白だった。
*
その日の夕方、ヴォルグに呼ばれた。
査定室に彼はいた。ギルド長のオルドーも壁際に立っている。ヴォルグの手には、新しい契約書があった。
「お前の同僚が、妙な写しを持ち出したそうだな」ヴォルグは言った。「ミラ、といったか。査定補助の。機密の草案を無断で複製した。規約違反だ」
心臓が冷えた。ミラ。彼女の名が、もう彼の口に上っている。
「これは、その処分契約だ」ヴォルグは新しい契約書を掲げた。「ミラの等級剥奪と追放。査定官の裁定は当然、俺だ。異議は認めない」
ミラは、何も奪っていない。ただ、俺のために、草案の写しを隠しただけだ。それが規約違反にされる。書かれた文言の上では、複製の禁止に触れる。事情は、また、読まれない。あの書式には、情状の欄がないからだ。
「彼女は、俺を助けようとしただけです」
「助けた、は規約にない言葉だ」ヴォルグは即座に言った。「あるのは、複製の禁止だけだ。書いてあることが、すべてだろう。お前が、いちばんよく知っているはずだ」
その通りだった。書いてあることが、すべて。俺が二年前、あの申請者に突きつけたのと、同じ言葉だ。
彼は、羽根ペンを取った。そして、また書いた。当事者の欄ではない。査定官の欄に。ヴォルグ、と。その横に、いつもの一言。
――本処分は、俺が裁定する。俺のものだ。
二度目だった。彼は、また、同じことをした。ミラの成果も、いくつか奪っている。この処分でも、彼は利益を受ける。当事者になる。そして、査定官を、名乗る。
僭称を、また一つ、重ねた。自分の手で。
「サインしろ、レイ」ヴォルグが俺を見た。「お前が証人だ。お前がここで認めれば、ミラの処分も、すぐに済む」
オルドーが、目を伏せた。何も言わない。この男は、いつも、そうだ。「規則上は」と言って、強い側に流れる。任命規則を曖昧にしてきたのも、この男だ。査定官を、誰とも、はっきり定めないまま。
*
俺は、契約書を見た。それから、ヴォルグを見た。
「一つ、確認しても」俺は、平らな声で言った。感情を出せば、負ける。「この処分契約で、査定官は、どなたですか」
「まだ言うのか」ヴォルグは笑った。「俺だ。俺が査定官長だ」
「上位規則の付則第2条。査定官は、本契約の当事者であってはならない」
俺は、続けた。声を、荒げなかった。罵倒もしなかった。ただ、条文を、読み上げた。
「あなたは、この処分から、利益を受ける。奪った成果を確定させ、それを知る者を消せる。付則第1条に照らせば、あなたは、この契約の当事者です」
ヴォルグの笑みが、わずかに、止まった。
「だとしたら、どうだという。俺が査定官で、何が悪い」
「当事者は、査定官には、なれません」俺は言った。「あなたが今、査定官の欄に名を書き、俺が裁定すると宣言したなら――それは、査定官の仕事ではない。当事者が、査定官を、僭称したことになる」
部屋が静かになった。
ヴォルグはまだ笑おうとしていた。だが、笑いの形がうまく作れていなかった。
「言葉遊びだ」彼は言った。「制度は俺が動かしている。俺が上だ」
「動かしている、と、縛られている、は違います」俺は言った。「あなたは制度を動かしているのではない。制度に、いちばん深く、名前を書き込んでいるだけです」
オルドーが、壁際で、わずかに身じろぎした。
「ギルド長」俺は、そちらを見た。「査定官は、あなたが任命するはずでした。ですが、任命の規則を、あなたは、はっきり書いてこなかった。誰が査定官かを、曖昧なままにした。だから、この契約には、査定官の定義が、ない。書かれていない一行がある。……その空白を、いま、ヴォルグさんが、自分の署名で、埋めようとしています」
オルドーは、目を伏せたまま、何も言わなかった。だが、その沈黙は、さっきまでの沈黙とは、少し違っていた。
「言葉遊びだと言うなら」俺は、ヴォルグに向き直った。「では、この契約書の、査定官の欄から、名前を消してください。今すぐ。そうすれば、あなたは当事者のまま、ただの当事者でいられる」
ヴォルグは消さなかった。消せなかった。名を消せば、ミラを裁定する権利も消える。奪った成果を守る力も消える。彼は査定官でいたかった。当事者でいながら。
「いいえ」俺は、首を振った。「あなたは、制度の上にいるつもりで――ずっと、制度の中にいた。当事者として。最初に、成果の欄に自分の名を書いた、あのときから」
ヴォルグは答えなかった。
彼はまだ分かっていない。自分が何を書いたのか。自分の署名が、どの条文の、どの一行を満たしてしまったのか。
だが契約魔法は分かっている。契約魔法はいつも、書かれた文言だけを読む。そして――そろそろ、日付が変わる。




