執行
追放までの猶予は三日だった。
処分契約書の第5条に、そう書いてある。等級剥奪は即日。退去は、署名の三日後。残された時間は、三日だけだ。
その三日で、俺は原本を読むつもりだった。ギルド長室の奥の保管庫にある、上位規則の原本。査定官の資格を定めた大本の条文。あそこに「書かれていない一行」の正体がある。
だが保管庫の扉の前で止められた。
「悪いな。お前はもう入れない」
番の職員が一枚の掲示を指した。閲覧規程第3条。
――処分手続き中の者は、規則原本の閲覧を認めない。
よくできている。処分中の者が原本を読めば、何かに気づく。だから近づけない。制度は、制度を疑う者を、制度の中から締め出すようにできている。
この壁も契約でできていた。正面からは通れない。
だが、方法はある。原本そのものが読めなくても、原本を引用した契約書なら、査定室に山ほど眠っている。上位規則を参照した、過去の契約。その引用の断片をかき集めれば、原本の条文を、裏側から復元できる。査定係の仕事は、いつもそうだった。全体を見せてもらえないなら、破片から組み立てる。
三日あれば、足りる。たぶん、足りるはずだった。
*
その夜、部屋にミラが来た。
息を切らしていた。抱えていたのは一束の羊皮紙だ。差し出す手が震えている。
「これ……ヴォルグの草案。処分される前に、写しを取っておいたの」
草案。登録される前の、契約の下書きだ。俺は、羊皮紙をめくった。
遺跡調査の成果報告契約。その草案だった。登録済みのものとは、少し違う。何度も書き直した、鉛の跡がある。当事者の欄。最初は空欄。次に俺の名がいったん書かれ、消されている。そして最後にヴォルグ、と。
この男は知っていた。この成果が俺のものだと。知っていて、俺の名を消し、自分の名を書いた。
それだけではなかった。束をめくると、似た契約が何枚も出てきた。別の依頼、別の成果。当事者の欄で、誰かの名が消され、ヴォルグの名に書き換えられている。一枚や二枚ではない。剣を持たない査定係や、下位の冒険者。数に入らないとされた者たちの手柄が、片端から、彼の名義に付け替えられていた。
一枚に、見覚えのある名があった。半年前に姿を消した、下位の斥候だ。魔獣の巣の位置を、命がけで突き止めた。その功績の当事者の欄も、いちど彼の名で書かれ、消され、ヴォルグの名になっている。功績を奪われ、それに気づき、そして――どうなったのか。掲示板が、知っている。あの男の名も、いつかの月の、執行者の一覧に、載っていた気がした。
俺は、羊皮紙を静かに置いた。これは、成果の付け替えの記録であると同時に、消された者たちの、墓標の一覧でもあった。
「ずっとやってたのね」ミラの声が細い。「戦えない子の手柄を、契約で、自分のものにして」
「そして気づいた者を、規約違反で処分する。俺のように」
制度悪用、とは少し違う。ヴォルグは制度を破っていない。文言の範囲で、成果を自分に付け替えているだけだ。当事者の欄に自分の名を書く。それは規則の上では合法だった。成果は契約に名を書いた者のもの。ヴォルグ自身がそう言った。
合法で、正しくて、誰も止められない。だからたちが悪い。
「持ち出したことは、誰にも言うな」俺は言った。「持っているだけで、お前も規約違反にされる」
ミラの顔がこわばった。制度の恐ろしさは、この街の人間なら、皆が知っている。
それでも、ミラは草案を置いていった。
「わたし、写しをもう一組、別の場所に隠しておく」彼女は言った。「もしレイが追放されて、いなくなっても……誰かが、これを読めるように」
俺は、彼女を止めなかった。止めるべきだったのかもしれない。だが、この草案は、俺の三日が尽きたあとに残る、たった一つの手がかりだった。ミラは、それを分かっていた。分かっていて、危険な側へ、自分から回った。数に入らないとされた者が、自分の意思で、駒であることをやめた。そういう瞬間だった。
*
その執行を、俺たちは、偶然見た。
草案を隠しに、裏の広間へ向かう途中だった。かつて公開処分に使われた、古い広間。今は誰も近寄らない。その中央に、一人の男がいた。
借金の契約を破った、行商人だった。顔だけは、知っている。病の子の薬代のために金を借り、返せずに期日を過ぎた。ただ、それだけの男だ。
男は床に膝をつき、何かに向かって叫んでいた。
「待ってくれ、金なら、あと十日で……!」
その相手は、俺の目にもはっきりとは見えなかった。広間の空気が、そこだけ濃い。壁の石に、契約の文面が黒く這い出している。借用契約書、第2条、返済期日。その一行が石の上でぬらりと光っていた。
男が後ずさる。逃げようとする。だが出口が遠い。回廊が閉じている。いつのまにか、逃げ道がどこにもなくなっていた。
「事情があるんだ! 子どもが、病気で……!」
事情。男は事情を訴えていた。
だが契約魔法は事情を読まない。壁の文面は、返済期日を過ぎたという一行だけを、静かに執行した。
黒い文字が床を這い、男の足に届いた。男の声が途中で消えた。悲鳴でも断末魔でもない。ただ、続くはずの言葉の、次の音がなかった。
あとに残ったのは、壁に浮かんだ借用契約書の文面だけだ。第2条。返済期日。それが黒々と貼りついていた。
ミラが口を押さえて震えていた。俺も動けなかった。
交渉は通じなかった。命乞いも、事情も、子どもの病も。契約魔法はそのどれも読まなかった。書かれた一行だけを、正しく執行した。
正しかった。それがいちばん恐ろしかった。
*
広間の入口に足音がした。
ヴォルグだった。執行の後始末に来たのだろう。査定官長は、そういう仕事もする。彼は壁の文面を一瞥し、掲示板に、男の名と、破った条項の番号を書き足した。第2条違反、と。それだけ。男の子どもの病のことは、どこにも書かれなかった。
「また一人か」ヴォルグは面倒そうに言った。「契約を破る方が悪い。俺は書かれた通りに裁定するだけだ」
そして俺たちに気づき、薄く笑った。
「見物か。いい機会だ、覚えておけ。この街の契約は全部、俺が裁定する。俺が最終だ。……お前の処分もな」
俺のものだ。この男はそう言いたいのだ。制度も、裁定も、成果も、全部。
俺は答えなかった。反論すれば、この男は勝ち誇る。今はまだ、勝ち誇らせておけばいい。ヴォルグはつまらなそうに去っていった。
その背中を、俺は見送った。この男は、自分が裁定する側だと、一度も疑っていない。裁定する側は、裁定される側にはならない。そう信じきっている。だから、平気で当事者の欄に名を書く。平気で「俺が裁定する」と口にする。
だが契約魔法は、信仰を読まない。地位も読まない。ただ、文言を読む。
裁定する側と、裁定される側。その二つを分けているのは、この男の思い込みではなく、どこかに書かれた、一行の条文のはずだった。そして、その条文を、俺はまだ読んでいない。
*
その夜、俺は眠れなかった。
あの行商人の、途切れた声が耳から離れない。そして思い出していた。俺自身のことを。
査定係になって、二年目のことだ。ある申請が、机に回ってきた。規約の要件を、一つだけ満たしていない申請だった。事情は、あった。同情もした。だが俺は、規約通りに却下した。書かれた要件を満たしていない。それが理由だった。
その申請者は、その後、ギルドを追われた。どこへ行ったかは、知らない。ただ、却下の書類に判を押したときの、自分の手の動きだけを、今も覚えている。
俺も、あの壁の文面と同じことをした。事情を読まず、書かれた一行だけで、人を一人締め出した。
だから決めていた。
ヴォルグを、あの怪異で殺したいわけではない。怪異を使って復讐したいのでもない。それをやれば、俺は、俺が却下したあの申請者に、また同じことをする。事情を読まず、文面だけで人を執行する側に回る。それは、ヴォルグと同じだ。
俺がやるのは、そうじゃない。
俺はただ、正しく読む。誰が当事者で、誰が査定官なのか。契約が本当は誰を執行すると書いてあるのか。それを、書かれた文言のとおりに読み切る。それだけだ。
執行は正しい。正しすぎて、誰も逃げられない。
――だとすれば。制度の上にいると信じている、あの男も。
その先を、俺はまだ言葉にしなかった。原本を読むまでは確証がない。だが頭の隅に置いた一点が、少しずつ熱を持ちはじめていた。
当事者の欄に、名を書いた。
あの男は、自分の手で、そこに名を書いたのだ。誰に強いられたのでもなく。




