書かれていない一行
「等級剥奪。ギルドからの永久追放。異議は認めない」
査定官長ヴォルグは、そう言って、処分契約書を机の上に滑らせた。羊皮紙が、俺の指先の手前でぴたりと止まる。狙って止めたのだろう。この男は、そういう距離の使い方がうまい。
俺は査定係だ。剣は握れない。魔法も使えない。ギルドで俺にできるのは、契約を読むことだけだった。
その俺が今、契約を突きつけられている側にいる。
「罪状は、依頼主への無断接触。規約第12条違反」ヴォルグは指を一本立てた。「機密保持契約に反して、お前は依頼主と直に話した。処分は妥当だ」
妥当。この男が好んで使う言葉だ。
三日前、俺は一件の依頼契約を精査していた。隣領の遺跡調査。報酬は金貨2000枚。大口だ。だが契約書の第9条に、依頼主が成果を「不十分」と一方的に判定すれば報酬を支払わなくてよい、という条項が紛れていた。判定基準は書かれていない。つまり依頼主は、どんな成果でも「不十分」と言い張れる。ギルドは、ただ働きにされる寸前だった。
俺は依頼主の代理人を呼び、第9条の判定基準を契約に明記させた。それだけだ。おかげでギルドは報酬2000枚を取り損ねずに済んだ。
それが、「無断接触」だという。
「代理人を呼んだのは、査定係の職務の範囲です」俺は言った。「規約第4条。査定係は契約の不備を是正する権限を持つ」
「第4条には、依頼主と接触してよいとは書いていない」
「書いていないから、禁じられてもいない」
ヴォルグは笑った。余裕のある笑いだった。
「解釈は、査定官が決める。俺が決める。お前じゃない」
俺は、机の端に積まれた別の契約書に目をやった。今朝登録されたばかりの、成果報告契約だ。遺跡調査、報酬2000枚――その成果を「達成した」当事者の欄に、見慣れた名があった。
ヴォルグ。彼のパーティ名義。
俺が第9条の穴を塞いで確保した2000枚は、彼の隊が挙げた功績として、契約に登録されていた。俺の名は、どこにもない。
「その成果報告は、俺が契約を是正して得たものです」
「契約を交わしたのは俺の隊だ。お前は書類をいじっただけだろう」ヴォルグは肩をすくめた。「成果は、契約に名を書いた者のものだ。それが制度だ。違うか?」
違わない。制度の上では、その通りだった。成果は、契約の当事者に帰属する。ヴォルグは、その当事者の欄に、自分の名を書いた。
だからこの男はこう思っている。成果を奪い、こいつを処分もする。制度の上に立つ者として、当然のことをしているだけだと。
――当事者の欄に、名を書いた。
その一点を、俺は、頭の隅にそっと置いた。今はまだ、置いておくだけでいい。
*
この世界の契約は、ただの紙ではない。
ギルドで交わされる契約は、すべて契約魔法で縛られる。署名した瞬間、契約は生きた条文になる。そして――文言どおりに執行される。
執行。この言葉を、この街の人間は皆、少し声を落として口にする。
契約に違反した者、あるいは契約が定める条件を満たした者のもとへ、それは来る。姿を見た者は少ない。インクの染みのようだったと言う者もいれば、条文が壁を這っていたと言う者もいる。共通しているのは一つだけだ。来たら、逃げられない。
半月前、酒場のならず者が、借金の契約を破って夜逃げを図った。三つ先の街まで逃げたと聞いた。翌朝、そいつの部屋の壁に、契約書の文面がそっくりそのまま、黒く浮き上がっていたという。本人は、いなかった。どこにも。
契約魔法は、意図を読まない。事情も読まない。ただ、書かれた文言を執行する。
だから、契約書に何が書いてあるかが、すべてだ。
そして俺は、契約書を読むことだけは、誰にも負けない。
*
「署名しろ」ヴォルグが処分契約書を指で叩いた。「等級剥奪と追放に同意する、と。ここに」
俺は羊皮紙を引き寄せた。そして、読んだ。
処分契約書。全7条。文面は簡潔だった。俺の罪状、等級剥奪、追放、異議申し立ての放棄。そして最後、第7条。
――本契約の履行に関する一切の判定は、査定官の裁定を最終とする。
なるほど。よくできている。第7条があるかぎり、俺が何を言おうと、裁定するのはヴォルグだ。俺の異議は届かない。制度の上に、この男が座っている。
俺は、もう一度、頭から読み直した。
今度は、遅く。一字ずつ。査定係の癖だ。速く読む日と、遅く読む日がある。遅く読むのは、何かが引っかかったときだけだ。
引っかかっていた。
第7条は言う。「査定官の裁定を最終とする」。では――査定官とは、誰のことだ。
俺は契約書をひっくり返した。裏も見た。定義条項を探した。契約書には普通、頭か末尾に「本契約において『査定官』とは……」という一行がある。言葉の意味を、契約の中で固定するための一行だ。
それが、なかった。
この処分契約書のどこにも、「査定官」を定義する一行が、書かれていない。
*
書かれていない一行。
普通なら、見落とす。誰もが「査定官=ヴォルグ」だと思っている。この場にいる全員が、そう疑わない。定義など要らない。そう思う。
だが、契約魔法は、思わない。契約魔法が読むのは、書かれた文言だけだ。「査定官=ヴォルグ」と、この紙のどこにも書いていないなら――契約魔法にとって、査定官が誰かは、この紙の外の、別の規則が決めることになる。
別の規則。ギルドの上位規則だ。査定官の資格を定めた、大本の条文。俺はそれを、うろ覚えだが、知っていた。査定係は、契約書だけでなく、その裏にある規則まで読まされる。誰も読まない付則の、そのまた奥まで。
あの上位規則には、たしか、査定官の資格要件が書いてあった。何と書いてあったか。俺は思い出そうとした。だが、記憶は薄い。原本を、もう一度読む必要がある。
――原本は、ギルド長室の、奥の保管庫にある。
背筋を、冷たいものが、撫でた。
それが何を意味するのか、この時点の俺には、まだ半分しか見えていなかった。ただ、見えていない残りの半分が、ひどく大きいことだけは、分かった。書かれていない一行は、書かれた七つの条文より、ずっと重い。
「どうした。読み終わったか」ヴォルグが言った。
俺は顔を上げた。
「一つ、確認しても?」できるだけ、平らな声で言った。感情を出せば負ける。それは会社勤めの――いや、査定係になって最初に覚えたことだ。「この契約で、査定官というのは、どなたを指しますか」
ヴォルグの眉が、わずかに動いた。くだらない質問だ、という顔だった。
「俺に決まっている。俺が査定官長だ」
「契約書には、そう書かれていませんが」
「書くまでもない」ヴォルグは羽根ペンを取り、処分契約書の署名欄の、査定官の側に、自分の名を書いた。ヴォルグ、と。そして横に一言、添えた。
――本処分は、俺の裁定として執行する。
書き終えて、彼は満足げに羽根ペンを置いた。自分の権威を、わざわざ紙に刻んで見せたつもりだろう。制度の上にいる、という宣言だ。
俺は、その一行を、じっと見ていた。
あなたは今、何を書いたのか。たぶん、あなたは分かっていない。
*
査定室を出ると、同僚のミラが、廊下の隅で待っていた。顔色が悪い。
「レイ……処分、本当なの」
「ああ。等級剥奪と追放だ」
ミラは唇を噛んだ。彼女も査定補助だ。俺と同じ、戦えない側の人間。ギルドの隅で、契約の写しを取り、番号を振る仕事をしている。ヴォルグのような男から見れば、数に入らない者たちだ。
「おかしいよ。レイは、ギルドを助けたのに」
「制度の上では、俺が規約違反者だ。それだけのことだ」
言いながら、俺は査定室の書式のことを考えていた。処分契約書の書式には、罪状を書く欄はある。等級を書く欄も、日付の欄もある。だが――情状を書く欄が、ない。
どんな事情でその行為に至ったか。それを記す場所が、あの書式には、初めから存在しない。制度は、事情を保存しないようにできている。書かれないものは、なかったことになる。
ミラが、声を落とした。
「ねえ、レイ。……最近、多くない? 執行」
俺は、廊下の掲示板に目をやった。
執行された者の名が、貼り出されている。この一月で、四人。いずれも契約違反。掲示には名前と、破った条項の番号だけが書かれている。言い分は、一つも書かれていない。
書かれた文言だけが、執行される。
書かれなかったものは、いちばん怖い。
俺は、まだ、その意味の全部を掴んではいなかった。だが、処分契約書の、あの空白の一行が、ずっと目の裏に残っていた。書かれていない一行。査定官を、誰とも定めていない一行。
――あの空白は、いつか、誰かを執行する。
それが誰なのかを、俺は、これから読み解かなければならなかった。追放されるまでの、残された時間で。




