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残響の不協和音〜カリスマαボーカルは隠れΩベーシストを逃がさない〜  作者: 水凪しおん


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第9話「境界線の融解と重なる音」

 ひどく静かで、外界から完全に切り離された古い予備スタジオ。

 天井から降り注ぐ青白い蛍光灯の光が、凱の驚きに満ちた表情を彫刻のように浮かび上がらせている。

 奏太の言葉が埃っぽい空気を震わせ、凱の心の奥底に何重にも掛けられていた鎖を粉々に砕いていくのがわかった。

 背伸びをして近づけた奏太の顔を、凱は信じられないものを見るかのように見つめたまま固まっている。

 互いの鼻先が触れそうな距離で、二人の呼吸だけが不規則なリズムを刻んでいた。

 奏太から漏れ出す熟れた果実のような甘い香りと、凱のまとう冬の夜気のような冷たい匂いが、狭い空間で激しく衝突し、やがて溶け合い始める。

 凱の瞳の奥で、必死に保たれていた理性の壁が音を立てて崩れ落ちるのが見えた。

 次の瞬間、凱の大きな手が奏太の腰を乱暴に引き寄せた。

 布越しに伝わる暴力的なまでの力に、奏太の口から短い吐息が漏れる。

 逃げ場を失った奏太の体が、凱の硬い胸板に強く打ち付けられた。

 重なり合った胸から、早鐘のように打つ互いの心音が直接伝わってくる。

 凱の顔が傾き、奏太の唇を塞いだ。

 それは確認するような優しいものではなく、長年抑え込んできた渇望を一気に爆発させるような、火傷しそうなほど熱く強引な接触だった。

 凱の唇が奏太のそれを割って入り、深く内側へと侵入してくる。

 奏太の背筋を、これまでに経験したことのない強烈な悪寒に似た快感が駆け上がった。

 足の力が完全に抜け、凱の腕の支えがなければそのまま床に崩れ落ちてしまいそうになる。

 奏太は凱の広い背中に両腕を回し、シャツの生地を強く握りしめて必死に縋り付いた。

 息継ぎの隙間すら与えない激しい口付けの中で、互いの体温が際限なく上昇していく。

 凱の舌が奏太の口内をくまなく這い回り、すべてを味わい尽くそうとするかのように絡みつく。

 交わる唾液の微かな水音が、静まり返ったスタジオに生々しく響いた。

 Ωとしての本能が、αに支配されることの喜びに打ち震えている。

 自分の才能を愛するが故に身を引こうとした凱の不器用な優しさを、今こうして物理的な熱として受け取っている事実が、奏太の目尻に熱い涙を浮かばせた。

 どれほどの時間が経ったのか、凱がゆっくりと唇を離した。

 銀色の糸が二人の間で細く伸び、そして切れる。

 凱の息はひどく荒く、その瞳には暗く燃えるような執着の炎が宿っていた。

 濡れた唇を手の甲で拭いながら、凱は低い声で囁く。


「俺の手をとったこと、必ず後悔させるぞ」


 その言葉には、もう二度と奏太を手放さないという強烈な独占欲が込められていた。

 奏太は荒い呼吸を整えながら、赤く染まった顔で凱を見つめ返す。


「後悔なんかしない。俺の音が潰れそうになったら、お前の声で引き上げろ」


 奏太の強気な返しに、凱の口元に微かな笑みが浮かぶ。

 それは、解散を宣言して以来、初めて見せる凱の本来の表情だった。

 翌日のリハーサルスタジオ。

 防音扉を抜けた先の空気は、昨日までの澱んだ重さが嘘のように晴れ渡っていた。

 瞬がギターのチューニングを終え、結がスネアドラムの張りを確認する中、奏太はベースの太い弦をゆっくりと弾く。

 凱がマイクスタンドの前に立ち、結のカウントで曲が始まった。

 奏太の指先から放たれる低音は、迷いを完全に断ち切り、重厚なうねりとなってスタジオの床を這う。

 凱の歌声は、もう奏太の音を避けることはなかった。

 むしろ、奏太のベースラインを土台として、自らの声をどこまでも高く飛び立たせようとしている。

 互いの音が空中で激しく絡み合い、ぶつかり合い、やがて一つの巨大なエネルギーとなって空間を満たしていく。

 奏太が音の厚みを増せば、凱の声がそれに呼応して熱を帯びる。

 その奇跡的な調和に、瞬のギターが歓喜の悲鳴を上げるように鋭いフレーズを重ねた。

 結のドラムが、三人の音を力強くまとめ上げ、狂いのないビートで前へと推進させる。

 壁際でタブレットを持っていた深が、驚いたように顔を上げ、そして静かに目を閉じて音楽に身を委ねるのが見えた。

 奏太はベースを弾きながら、凱の背中を見つめる。

 凱が振り返り、視線が交差する。

 照明のない薄暗いスタジオの中で、二人の間には言葉を必要としない完全な理解があった。

 本能のままに惹かれ合う引力と、音楽を通じて魂を共有する喜びが、奏太の指先から際限なく音を溢れさせる。

 もう不協和音はどこにも存在しない。

 ツアーは終盤戦に突入し、バンドの演奏は日を追うごとにすさまじい進化を遂げていった。

 ステージ上で凱と奏太が見せる息の合った掛け合いは、観客を狂喜乱舞させ、フロアの熱気を毎夜限界まで引き上げた。

 移動中の車内やホテルの廊下で、凱はもはや奏太を避けることはしなかった。

 むしろ、誰の目にも触れない一瞬の隙を突いて、奏太の首筋に顔を埋め、深く匂いを嗅ぎ取るような素振りを繰り返す。

 そのたびに奏太の体温は跳ね上がり、薬で無理やり抑え込んできたΩとしての周期が、凱の存在によって自然な形へと導かれていくのを感じていた。

 結ばれる日は近い。

 その確信が、奏太のベースにさらに深い艶を与えていった。

 そして、ツアーの最終目的地である巨大なアリーナ会場のステージが、目前に迫っていた。

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