第10話「番の契りと完全な調和」
巨大なアリーナの地下に設けられた広大な楽屋エリアは、本番を数時間後に控えたスタッフたちの慌ただしい足音と声でごった返していた。
分厚い壁の向こう側からは、すでに会場に入り始めた数万人の観客が発する重低音のようなざわめきが、地鳴りのように響いてくる。
サウンドチェックを完璧に終えたメンバーたちは、それぞれの時間を過ごすために一度散開していた。
瞬はケータリングの並ぶ部屋でスタッフと談笑し、結は静かな場所でストレッチを行っている。
深はメンバーの動線を確保しつつ、関係者との最終確認に追われていた。
奏太は一人、機材ケースが積み上げられた薄暗い予備室のソファに深く腰を下ろしていた。
冷房が強く効いているはずの室内で、奏太の体は不自然なほどの熱を帯びている。
薬の服用を完全にやめてから数日が経過し、Ωとしての周期がいよいよ頂点を迎えようとしていた。
皮膚の裏側を這うような微かな疼きが、波のように寄せては返している。
喉が渇き、呼吸が自然と浅くなる。
しかし、以前のように恐怖や焦燥感に苛まれることはない。
自分のすべてを受け止めてくれる存在が、すぐ近くにいるという絶対的な安心感が、熱の苦しさを甘い期待へと塗り替えていた。
重い扉が軋む音を立てて開き、凱が静かに足を踏み入れた。
本番用の黒い衣装に身を包んだ凱の姿は、影をまとったように鋭く、そして息を呑むほどに美しい。
扉が閉まり、ロックが掛かる乾いた音が室内に響く。
外界の喧騒が遠ざかり、二人だけの閉ざされた空間が完成した。
凱から放たれるαのフェロモンが、冷たい夜気を帯びて奏太の肌を撫でる。
それに呼応するように、奏太の体から熟れた果実のような甘い匂いが爆発的に立ち上り、室内を瞬く間に染め上げた。
凱の瞳の色が、理性の淵を覗き込むような深い暗色へと沈んでいく。
「待たせたな」
凱の低い声が、熱を持った空気を震わせる。
奏太はソファから立ち上がろうとしたが、足に力が入らずに体勢を崩した。
凱が素早く距離を詰め、倒れ込みそうになった奏太の体を抱き留める。
硬い腕の中にすっぽりと収まり、凱の高い体温が衣服越しに伝わってくる。
「無理をするな。もう薬はいらないと言っただろう」
凱の指先が、奏太の汗ばんだ額の髪を優しく後ろへと撫でつけた。
奏太は凱の胸に顔を埋め、大きく息を吸い込む。
凱の匂いが肺の底まで満ちていく感覚が、思考を白く染め上げていく。
凱の手が奏太の背中を滑り降り、腰を強く抱き寄せる。
密着した体から、互いの心音が狂おしいほどに同期していくのがわかった。
凱の顔が下がり、唇が奏太の耳元に触れる。
「今から、お前を完全に俺のものにする。もう逃げられないぞ」
甘く危険な囁きに、奏太の背筋を電流のような快感が駆け抜ける。
奏太は無言で頷き、自らの意志を示すように首を傾けてうなじを凱の前に曝け出した。
Ωとしての急所であり、番の契りを結ぶための最も神聖な場所。
凱の熱い吐息が、うなじの柔らかな皮膚に直接吹きかかる。
ぞくりと粟立つ肌を、凱の唇が優しく、そして確かめるように何度もついばむ。
奏太の口から、甘い声が漏れた。
凱の指が奏太のシャツの襟元をくつろげ、肩を大きく露出させる。
視界の端がぐらぐらと揺れ、体内の熱が一点に向かって凝縮していくのを感じる。
「奏太」
名前を呼ぶ凱の声は、祈りのように響いた。
次の瞬間、凱の鋭い牙が、奏太のうなじの皮膚を深く貫いた。
凄まじい痛みが脳髄を劈き、奏太の体が大きく跳ねる。
凱の腕がさらに強く奏太を抱き締め、逃げることを許さない。
痛覚が頂点に達した直後、傷口から凱のαとしてのフェロモンが直接血液に流れ込んでくる感覚があった。
それは猛毒のように強烈でありながら、奏太の細胞の一つ一つを歓喜で満たしていく快感だった。
痛みが熱に変わり、視界が真っ白に弾ける。
魂の最も深い部分で、二人の存在が完全に溶け合い、一つの結び目となる。
奏太の目から涙が溢れ落ち、凱の肩を濡らした。
永遠にも思える時間が過ぎ、凱がゆっくりと牙を抜く。
傷口から血が滲むのを感じながら、奏太は荒い息を繰り返して凱の胸に凭れかかった。
凱の舌が傷口を優しく舐め上げ、血を止める。
細胞の隅々まで凱の匂いが染み渡り、絶対的な安心感と満ち足りた熱が奏太の全身を包み込んでいた。
もはや薬で本能を押さえ込む必要も、自分の存在が凱の邪魔になるのではないかと怯える必要もない。
凱が奏太の顔を両手で包み込み、濡れた瞳を真っ直ぐに見つめる。
その顔には、これまで見たことのないような穏やかで深い愛情が満ちていた。
凱の唇が、奏太の額に優しく触れる。
「行くぞ。俺たちの最高の音を、世界に見せつけてやろう」
その言葉に、奏太は力強く頷いた。
体の中には、凱と繋がったことで生まれた無尽蔵のエネルギーが渦巻いている。
扉を開け、外界の喧騒の中へと足を踏み出す。
廊下の先では、瞬と結がすでに楽器を持って待機していた。
深が時計を確認し、静かに頷く。
奏太は自分のベースを肩に掛け、ネックを握りしめた。
指先から伝わる感触は、かつてないほどに確かで力強い。
前を歩く凱の大きな背中を見つめながら、奏太はこれから始まるステージが、二人の関係の真の始まりになることを確信していた。




