第7話「焦燥のステージと問いかける音」
開演前の楽屋は、先ほどまでの激しいやり取りが嘘のように静まり返っていた。
天井の空調が一定の低い風切り音を立てる中、奏太はパイプ椅子に深く腰掛け、自分の両手を見つめている。
指先には、まだベースの太い弦を弾いたときの鈍い痛みが残っていた。
隣のソファでは瞬がギターのフレットを丁寧にクロスで拭き上げ、その向かいでは結が目を閉じて膝の上でスティックを転がしている。
凱の姿はそこにはなかった。
本番直前まで一人で過ごすのはいつものことだったが、今日の不在は分厚い壁のようにメンバーとの間を隔てている。
深が紙コップに温かいお茶を注ぎ、メンバーの前に静かに置いていく。
湯気が微かに立ち上り、乾いた空気に溶けて消えた。
奏太は紙コップを両手で包み込み、手のひらに伝わる温もりで冷え切った指先を温める。
逃げようとした自分を引き止めてくれた仲間の手の感触が、まだ胸の奥で熱を帯びていた。
自分がΩであることを隠している罪悪感は消えない。
それでも、ここでベースを置けば、本当にすべてが終わってしまう。
客席の照明が落ちる気配が、分厚い扉越しに空気の振動として伝わってくる。
フロアから湧き上がる歓声が、床板を揺らして足の裏を叩いた。
深が入り口の扉を開け、静かに頷く。
奏太は立ち上がり、ベースを肩に掛けた。
重い楽器の感触が、自分の存在意義を確かめるように肩に食い込む。
薄暗いステージ袖に向かうと、すでに凱がそこで待機していた。
暗闇の中で、凱の広い背中が微かに上下している。
鋭く冷たいαの匂いが、ステージの埃っぽい空気と混ざり合って奏太の鼻腔をくすぐった。
奏太は奥歯を噛み締め、呼吸を整える。
もう音を引くことはしない。
拒絶されるのなら、その壁を壊すほどの音をぶつけるだけだ。
ステージに上がり、定位置につく。
青い照明が頭上から降り注ぎ、視界が鮮やかな色に染まった。
結のカウントが鳴り響き、瞬のギターが空間を切り裂く。
奏太は右手の指に力を込め、これまで以上に太く重い音をアンプから放った。
床を震わせる低音が、凱の足元へと真っ直ぐに向かっていく。
凱が一瞬だけ振り返り、驚いたように目を見開くのが見えた。
しかし、すぐに前を向き、マイクを握りしめて声を放つ。
凱の歌声は、相変わらず奏太の音を避けるように空中を舞っていた。
交わることを拒絶する冷たい旋律が、奏太の胸をえぐる。
それでも奏太は指を止めず、凱の声の隙間を埋めるように緻密なフレーズを弾き続けた。
汗が額から流れ落ち、目尻を濡らす。
照明の熱が肌を焼き、息をするたびに喉が渇いていく。
二人の音がステージ上で激しくぶつかり合い、不協和音を生み出しながらも、奇妙な熱狂を客席に生み出していた。
観客には、この音の乖離が意図された張り詰めた緊張感として伝わっているのかもしれない。
奏太は凱の背中を睨みつけるように見つめ、一歩前に出る。
凱の声が伸びる瞬間に合わせ、最も低い音を全力で弾き鳴らす。
振動が空気を震わせ、凱の背中を直接叩く。
凱の肩がわずかに揺れ、声の輪郭が一瞬だけブレた。
それは、凱が奏太の音を確かに受け止めた証拠だった。
奏太の胸に、小さな火が灯る。
最後の曲が終わり、耳鳴りだけが残るステージからメンバーたちが降りていく。
アンコールはない。
凱は誰よりも早くギターやケーブルの海を抜け、楽屋へと向かって歩き出していた。
奏太は自分のベースをスタンドに立てかけると、すぐに凱の背中を追う。
廊下に出ると、凱はすでに楽屋を通り過ぎ、建物の奥にある使われていない予備のスタジオの方へと向かっていた。
薄暗い廊下には機材のケースが積み上げられ、冷たい空気が澱んでいる。
奏太は足音を忍ばせることもなく、早足で凱に追いついた。
「待ってくれ」
奏太の声が、狭い廊下に響く。
凱の足がピタリと止まる。
振り返った凱の表情は、暗がりの中で冷たく硬直していた。
汗で濡れた黒髪が額に張り付き、荒い呼吸が肩を揺らしている。
「何だ。俺はもう帰る」
凱の声には、明確な拒絶の意志が込められていた。
奏太は凱の目を真っ直ぐに見据え、一歩近づく。
凱の放つ冷たい香りが強くなるが、今の奏太にはそれに抗うだけの理性が残っていた。
「逃げるな。話がある」
奏太は凱の腕を掴み、すぐ横にあった予備スタジオの分厚い防音扉を押し開けた。
凱は振り払うこともできたはずだが、奏太の強い視線に気圧されたのか、無言のままスタジオの中へと足を踏み入れた。
奏太もその後に入り、重い扉を閉める。
外界の音が完全に遮断され、二人だけの閉ざされた空間が生まれた。
空調も入っていない室内は、カビと埃の匂いが立ち込めている。
奏太は扉の前に立ち、凱の退路を塞ぐようにして口を開いた。
「今日のライブ、俺の音は間違っていたか。お前の声を邪魔していたか」
凱は視線を逸らし、部屋の隅にある古いアンプに目を向ける。
「音の話はもういい。ツアーが終わればすべて終わるんだ」
「よくない。俺はお前の隣でベースを弾き続けたい。お前の声が、俺のすべてなんだ」
奏太の言葉が、静まり返ったスタジオの空気を震わせた。
凱の背中が大きく波打ち、握りしめられた拳が微かに震えている。
「なぜ解散する。なぜ俺の音を拒絶する。理由を言え」
奏太は一歩踏み出し、凱の背中に向かって叫ぶように問い詰めた。
これ以上、理由もわからないまま終わらされることなど我慢できなかった。
自分のせいなら、はっきりとそう言ってほしかった。
凱がゆっくりと振り返り、奏太の顔を見る。
その瞳の奥には、これまで見たこともないような深い苦悩と、切実な痛みが渦巻いていた。




