第6話「不協和音の果てと繋ぎ止める手」
ホテルの窓から差し込む朝の光は、目を背けたくなるほどに白く眩しかった。
奏太はベッドの上に身を起こし、重い頭を抱え込むようにして深くため息をつく。
昨夜の熱はすっかり引いていたが、代わりに全身の関節に鉛を埋め込まれたような鈍い疲労感が残っている。
サイドテーブルに置かれた小さな水のボトルを手に取り、新しい錠剤を二錠、乾いた喉の奥へと無理やり流し込んだ。
薬が胃の粘膜に触れる感覚が、気休め程度の安心感をもたらす。
洗面所に向かい、鏡に映る自分の顔を見ると、血の気が失せて真っ青になっていた。
冷たい水で何度も顔を洗い、首筋に残る微かな幻の熱を洗い流すようにタオルで強く肌を擦る。
どれだけ強く拭っても、凱の吐息が触れた場所の感覚だけは消えずに残っていた。
次の都市への移動のため、メンバーたちはホテルのロビーに集まっていた。
深が事務的な手順でチェックアウトを済ませる中、誰も一言も言葉を発しようとしない。
移動用の大型車に乗り込む際も、奏太は一番後ろの座席の隅に身を潜めるようにして座った。
凱は昨日と同じように助手席に座り、シートを倒して深く目を閉じている。
車内に漂う空気は、昨日よりもさらに冷たく、張り詰めたガラスのように今にも砕け散りそうだった。
タイヤがアスファルトを擦る単調な音が、ただ時間だけを無情に進めていく。
到着したライブハウスは、古い映画館を改装した独特の造りになっていた。
ドーム状の天井には埃が舞い、独特のカビの匂いと機材の油の匂いが混ざり合って漂っている。
ステージの上にはすでに楽器がセッティングされており、無数の黒いケーブルが床を這っていた。
奏太は自分のベースをケースから取り出し、シールドをアンプに繋ぐ。
金属のプラグがジャックに収まる硬い音が、広い空間に虚しく響いた。
サウンドチェックが始まり、結がスネアドラムの張りを確かめるように硬質なビートを刻む。
瞬のギターがコードを鳴らし、奏太もそれに合わせてベースの弦を指で弾く。
しかし、奏太の指先からは昨日までのような確かな手応えが完全に失われていた。
音程もリズムも間違っていないはずなのに、出力される音にはまったく熱が宿っていない。
凱の歌の邪魔にならないように、ただそれだけを考えて音の輪郭を意図的にぼやかし、存在感を消そうとしている自分がいた。
凱はマイクスタンドの前に立ち、声の調子を確かめるように短くフレーズを歌う。
その声は相変わらず圧倒的で、空間を支配するだけの力を持っていた。
だからこそ、奏太の鳴らす空虚なベースラインとの乖離が痛々しいほどに際立っていた。
曲の途中で、突如として瞬がギターの弦を手のひらで強く押さえ、音を完全に止めた。
鋭いハウリング音が鳴り響き、そして静寂が訪れる。
「音、死んでるぞ」
瞬の低い声が、ステージの中央に立つ奏太へと真っ直ぐに向けられた。
奏太はベースのネックを握る手に力を込め、顔を伏せたまま答える。
「間違えてはいない。リズムも合っているはずだ」
その言葉に対し、背後のドラムセットから結が立ち上がり、手にしていたスティックをフロアタムの上に乱暴に放り投げた。
乾いた木音が跳ねる。
「そういうことを言っているんじゃない。お前の音からは、俺たちと一緒に音を鳴らす意志が感じられない」
結の言葉は静かだったが、その奥には明確な怒りが含まれていた。
普段は冷静な結が感情を露わにすることなど滅多になく、奏太の肩が小さく跳ねる。
凱は振り返ることもなく、マイクスタンドに手をかけたまま無言を貫いている。
その背中が、今の不協和音の原因がすべて自分にあることを無言で告げているように思えた。
奏太は限界まで張り詰めていた糸がプツリと切れるのを感じた。
「俺が抜けた方がいい。ツアーが終わるのを待たずに」
乾いた声が、自分でも驚くほどすんなりと口からこぼれた。
これ以上、自分の存在が凱の音楽を縛り、バンドの和を乱すのを見るのは耐えられなかった。
自分が身を引けば、少なくともこの息が詰まるような不協和音だけは解消されるはずだ。
ベースのストラップを肩から外そうとした瞬間、大きな足音が近づき、瞬が奏太の胸ぐらを力強く掴んだ。
「ふざけるな。逃げて終わりにする気か」
瞬の瞳が、怒りと悲しみで激しく揺れている。
奏太の胸ぐらを掴む指先からは、長年ギターの弦を押し込み続けてきた硬い指だこの感触が伝わってきた。
「お前がいないリズム隊で、俺がギターを弾けると思っているのか。俺たちの音を一番下で支えてきたのは誰だ」
結もドラムセットから降りて歩み寄り、瞬の隣に並び立つ。
「奏太。お前がどんな理由を抱えているかは知らない。だが、お前の音を手放す気は俺にはない」
二人の言葉が、重く冷え切っていた奏太の胸の奥に、確かな熱を持って流れ込んでくる。
ステージの袖で静かに状況を見守っていた深が、ゆっくりとした足取りで歩み寄ってきた。
深はタブレットを脇に抱え、真っ直ぐに奏太の目を見る。
「音楽を辞める理由なら、いくらでも後から作れます。ですが、今ここで音を途切れさせれば、二度と取り戻すことはできません。あなたは本当に、このまま終わっていいと思っているのですか」
深の言葉は冷徹なほどに現実的で、だからこそ奏太の胸の最も柔らかい部分を正確に射抜いた。
終わっていいはずがない。
凱の隣で、このメンバーと一緒に音を鳴らし続けたいと言う切実な願いがあるからこそ、自分の抱える秘密に苦しんできたのだ。
奏太は胸ぐらを掴む瞬の手に自分の手を重ね、ゆっくりと押し下げる。
深く息を吸い込み、埃っぽいステージの空気で肺を満たした。
視線を上げ、ずっと背中を向けたままの凱の広い背中を見据える。
逃げるのはもうやめる。
自分の音が拒絶されようとも、理由を突き止めるまでは絶対にこの場所を離れない。
奏太は再びベースのストラップを肩に掛け直し、太い弦の上に指を置いた。




