第5話「赤く染まる密室と理性の境界」
非常用の赤いランプが、狭い箱の中を血のような色に染め上げている。
昇降機のモーター音は完全に途絶え、耳をつんざくほどの静寂が鼓膜を圧迫した。
奏太は冷たい金属の壁に背中を押し当てたまま、ずるずると床に崩れ落ちそうになる膝を必死に支えている。
薄暗い赤い光の中で、目の前に立つ凱の輪郭が不気味なほど鮮明に浮かび上がっていた。
凱の荒い呼吸が、静まり返った空間に痛いほど生々しく響き渡る。
濡れた黒髪から水滴が滑り落ち、凱の首筋を伝ってシャツの襟元へと吸い込まれていくのが見えた。
密閉された空間に、冬の夜気を思わせる鋭く冷たい匂いが急速に満ちていく。
それは凱が発するα特有のフェロモンであり、今の奏太にとっては猛毒と同じだった。
規定量を超えて飲み込んだはずの抑制剤は、すぐ傍らに立つ強烈な存在を前にして、完全にその効力を失っている。
体の深部からどろりとした熱が湧き上がり、血管を這うようにして全身へと広がっていく。
指先が微かに震え、視界の端が熱でぐらぐらと歪んでいくのがわかった。
奏太の皮膚から、熟れた果実のようなひどく甘い匂いが滲み出し始める。
自分がΩであることを隠し通さなければならないと言う理性と、目の前のαにすべてを明け渡したいと言う本能が、奏太の脳内で激しくせめぎ合う。
しかし、熱に浮かされた体はすでに後者の命令に従い始めていた。
呼吸が浅くなり、喉の奥がカラカラに渇いて熱い息が口から漏れる。
「来るな」
奏太の口から、掠れた声がこぼれ落ちる。
それは拒絶の言葉でありながら、熱に浮かされたような甘い響きを帯びていた。
凱の瞳の奥に、理性を引き裂こうとする獰猛な光が明滅している。
赤い光に照らされた凱の顔には、苦痛と渇望が入り混じった凄絶な表情が浮かんでいた。
「薬が効いていないのか」
凱の声はひどく低く、熱を帯びて掠れている。
凱が一歩を踏み出し、二人の距離が完全にゼロになった。
大きな手が伸びてきて、奏太の肩を乱暴に掴む。
布越しに伝わる暴力的なまでの熱が、奏太の皮膚を焼くように侵食してくる。
肩を掴まれた衝撃で、奏太の体からわずかに残っていた力が完全に抜け落ちた。
膝が折れそうになるのを、凱の腕が力強く引き寄せて支える。
硬い胸板に頬がぶつかり、凱の力強い心音と高い体温が直接伝わってくる。
奏太の鼻腔を冷たい香りが満たし、思考の回路が次々と焼き切れていく。
凱の顔がゆっくりと下がり、その吐息が奏太の首筋に直接吹きかかった。
熱い唇が首の皮膚に触れるか触れないかの距離を這い、背筋を強烈な悪寒に似た快感が駆け上がる。
奏太は目を閉じ、無防備なうなじを凱の前に曝け出すようにわずかに首を傾けた。
抗うための力はとうに失われ、奏太の指先が凱のシャツの背中を弱々しく掴む。
音楽と言う絆すら断ち切ろうとする凱が、今だけは本能に身を任せて自分を求めている。
その残酷な事実に胸を引き裂かれそうになりながらも、奏太は凱の熱に自らを明け渡そうとしていた。
凱の歯が皮膚に触れ、鋭い痛みが走るのを奏太は静かに待った。
しかし、その痛みはいつまで経っても訪れなかった。
不意に凱の全身が硬直したかと思うと、肺の底から絞り出すような荒い息が吐き出される。
次の瞬間、奏太の肩を掴んでいた手が乱暴に離された。
強い力で突き飛ばされるようにして、奏太の背中が再び冷たい金属の壁に叩きつけられる。
鈍い衝撃に息を呑んで目を開けると、凱が数歩後ずさり、壁に向かって強く拳を打ち付けていた。
硬質な金属音が狭い空間に弾け、床板が微かに揺れる。
凱は壁に額を押し当て、肩を大きく上下させながら荒い呼吸を繰り返している。
その背中からは、自らの内側で暴れ狂う本能を必死に押さえ込もうとする凄まじい苦悶が滲み出していた。
「その匂いをしまえ。今すぐだ」
血を吐くような声だった。
凱の言葉は、奏太の熱を持った体に冷や水を浴びせるように鋭く突き刺さった。
突き放されたことの衝撃と、自分がいかに浅ましい姿を晒していたかという羞恥が、一気に奏太の思考を冷やしていく。
本能のままに触れ合おうとしたのは自分だけであり、凱は最後の最後で理性を保ち、自分を拒絶したのだ。
その事実が、解散を告げられたときと同じくらいの絶望となって奏太の胸をえぐる。
奏太は床に崩れ落ちたまま、自分の両腕を強く抱きしめた。
熱はまだ体の奥でくすぶっているというのに、心臓だけが氷のように冷え切っていく。
自分がΩであるという事実が、凱をここまで苦しめ、忌避させている。
何も言葉を発することができず、奏太はただ震える唇を固く噛み締めた。
突如として、足元から突き上げるような衝撃が走り、エレベーターのモーター音が低く唸りを上げる。
赤い非常灯が消え、頭上の蛍光灯が本来の明るい白い光を取り戻した。
網膜を焼くような不自然な明るさが、二人の間に横たわる決定的な断絶を白日の下に晒す。
箱が再び下降を始め、やがて目的の階に到着して重い音とともに扉が開いた。
凱は振り返ることも、奏太を一瞥することもなく、足早に廊下へと出て行く。
残された奏太は、開いた扉の前に座り込んだまま、遠ざかっていく凱の足音だけをただ聞いていた。
完全に気配が消えた後、奏太はようやく重い体を壁伝いに引き起こす。
自分の部屋に戻るまでの道のりが、永遠のように遠く、果てしないものに感じられた。
部屋の鍵を開け、真っ暗な室内に足を踏み入れると同時に、糸が切れたようにベッドの上へと倒れ込む。
シーツの冷たい感触に顔を埋め、奏太は声を出さずに息を咽んだ。
目の裏に焼き付いているのは、拒絶するように壁を叩いた凱の背中だけだった。




