第3話「軋む和音と見えない壁」
分厚い防音扉に閉ざされたリハーサルスタジオの空気は、不快なほどに乾燥している。
床に這わされた太い黒のケーブルが蛇のように絡み合い、天井の蛍光灯の光を鈍く反射している。
奏太は肩から下げたベースの重みを感じながら、太い弦に指の腹を押し当てる。
昨夜の熱は規定量以上の薬を飲み下すことで無理やり押さえ込んでいるものの、皮膚の下で微かな火種がくすぶり続けているのがわかる。
関節の節々が鉛のように重く、視界の端がわずかに揺らぐ。
傍らのアンプから出力されるベースの低音が、いつもより鼓膜に鋭く突き刺さる。
瞬がギターのネックを握りしめ、苛立ちを隠そうともせずにピックで弦を弾く。
ひび割れたような鋭利な金属音が空間を引き裂き、耳の奥に嫌な痛みを残す。
結は無言のままスネアドラムのヘッドの張力を調整し、冷たい視線を自分の手元だけに落としている。
スタジオ内のどこを見渡しても、昨日までの熱を帯びた完璧な一体感は見当たらない。
防音扉が重い摩擦音を立てて開き、凱が静かに足を踏み入れる。
黒いシャツの襟元から覗く首筋は、陶器のように冷たく滑らかな質感を保っている。
凱の姿を視界に捉えた瞬間、奏太の心臓が不規則なリズムを刻み始める。
夜の冷気を凝縮したようなα特有の匂いが、スタジオの淀んだ空気を切り裂いて奏太の鼻腔をくすぐる。
奏太は奥歯を噛み締め、呼吸を浅くしてその匂いを肺の奥に入れないよう努める。
凱は誰とも目を合わせず、部屋の中央にあるマイクスタンドの前に立つ。
「始めるぞ」
抑揚のない平坦な声が、冷たい床に落ちる。
結のスティックが硬質なカウントを刻み、曲が始まる。
奏太は指板を滑らせ、凱の声を土台から支えるための重厚な音を紡ぎ出す。
しかし、凱の歌声は奏太のベースと交わることを明確に拒絶している。
正確なピッチと豊かな声量を保ちながらも、その響きには熱が通っていない。
透明なガラスの壁越しに歌われているような、どうしようもない隔絶がそこにある。
奏太が音の厚みを増して凱の旋律に寄り添おうとすると、凱はそれを躱すようにフレーズの語尾を短く切り捨てる。
互いの音が空中で反発し合い、不快な和音となって散っていく。
瞬のギターも帰る場所を失い、虚空を彷徨うように上滑りする。
曲の途中で凱が右手を上げ、演奏が不自然に止まる。
スタジオに耳鳴りがするほどの静寂が降りる。
「ベース、音が前に出過ぎだ」
凱の冷たい声が、奏太の胸の奥を刃のようにえぐる。
「もっと引け。俺の歌の邪魔をするな」
奏太は喉の奥で息を呑み、ネックを握る手に白くなるほど力を込める。
凱の歌の邪魔をしているのは自分の存在そのものなのかという疑念が、黒い染みのように心に広がっていく。
解散の原因は、自分がΩの周期を隠しきれず、無自覚に漏れ出したフェロモンが凱の歌に悪影響を与えているからではないのか。
そんな考えが頭をもたげ、奏太の視界が暗く沈む。
弁解の言葉は喉の奥に張り付き、ただ小さく首を縦に振ることしかできない。
凱はそれ以上奏太を見ようとせず、手元のマイクのケーブルを弄る。
深が壁際のパイプ椅子から立ち上がり、手元のタブレットに視線を落としたまま口を開く。
「休憩にします。感情の乱れは音の乱れに直結します。各自、頭を冷やしてください」
深の言葉に従い、メンバーたちはそれぞれの楽器を置いて散り散りになる。
奏太はベースをスタンドに立てかけ、逃げるようにスタジオの外へ出る。
廊下の隅にある自動販売機の前に立ち、冷たい水の入ったペットボトルを買い求める。
冷え切ったプラスチックの容器を額に押し当て、火照った皮膚から熱を奪う。
自分がΩであると言う変えられない事実が、これまで積み上げてきた大切なものをすべて壊そうとしている。
凱の隣でベースを弾き続ける権利を失うことの恐怖が、奏太の全身を細かく震わせる。
ポケットの中の錠剤の感触を指先で確かめながら、奏太は肺の底から重い息を吐き出す。
この不協和音が鳴り続ける限り、自分たちの時間は終わりに向かって加速していくのだという絶望が、奏太の肩に重くのしかかる。




