第2話「深夜の密室と微熱」
凱が立ち去った後の楽屋には、氷のように冷たく重苦しい沈黙だけが残されていた。
先ほどまでの熱狂と興奮は嘘のように消え去り、壁掛けの時計が刻む秒針の音だけが異様に大きく聞こえる。
瞬は髪を乱暴にかきむしり、行き場のない怒りをぶつけるようにパイプ椅子を蹴り飛ばした。
硬い金属音が室内に反響し、奏太の肩がわずかに跳ねる。
「ふざけんなよ。理由も言わずに解散って、納得できるわけないだろ」
瞬の荒げた声が壁にぶつかって落ちる。
結は床に視線を落としたまま、固く結んだ唇からため息を漏らした。
「今は何を言っても無駄だ。凱が一度口にしたことを曲げないのは、お前も知っているはずだ」
結の言葉は冷静さを保とうとしていたが、その声の端には隠しきれない動揺が滲んでいた。
深は静かにため息をつき、タブレットの画面をスワイプして電源を落とした。
「落ち着いてください。ここで言い争っても状況は変わりません。まずはホテルへ移動しましょう。頭を冷やす時間が必要です」
深の事務的な声に促され、メンバーたちは無言のまま荷物をまとめ始めた。
奏太は床に座り込んだまま、自分の両手を見つめていた。
指先にはまだベースの弦の感触が残っている。
つい先ほどまで、凱の声と自分の音が完璧に調和していたというのに、すべてが幻だったかのように思えてくる。
ふらつく足で立ち上がり、ベースケースのジッパーを引き上げる手が微かに震えていた。
◆ ◆ ◆
深夜の高速道路を走る大型の移動車内は、息が詰まるほどの閉塞感に包まれていた。
運転席では深が黙々とハンドルを握り、助手席には凱が深く背もたれに身を預けて目を閉じている。
後部座席に並んで座る瞬と結も、疲労と戸惑いから一切口を開こうとしない。
一番後ろの座席に身を縮めるようにして座る奏太は、窓ガラスに額を押し当てて外の暗闇を見つめていた。
一定の間隔で流れていくオレンジ色の街灯が、車内を規則的に照らし出しては暗闇に沈める。
微かな光が差し込むたび、助手席に座る凱の横顔が浮かび上がった。
伏せられた長い睫毛、通った鼻筋、固く結ばれた唇。
そのすべてが美しく、同時にひどく遠いものに感じられる。
シートの隙間から漂ってくる、冷たい夜の空気のような鋭い匂い。
凱の放つαのフェロモンが、密室の車内に充満して奏太の呼吸を苦しくさせていた。
ライブ前に飲んだ薬の効果は、あの激しい演奏と精神的なショックによって完全に切れてしまったらしい。
体の芯からじんわりと熱が湧き上がり、指先が痺れるような感覚に襲われる。
呼吸が浅くなり、喉の奥がカラカラに渇いていく。
Ωとしての本能が、すぐ近くにいる強烈なαの存在に反応し、必死に警告を鳴らしているのだ。
奏太は自分の腕を強く抱きしめ、爪が布地に食い込むほど力を込めた。
『ここでバレるわけにはいかない』
震える唇を噛み締め、必死に意識を保とうとする。
もし今、自分がΩであることが知られれば、バンドの解散を早める決定的な引き金になりかねない。
それだけは絶対に避けたかった。
熱を帯びた視界の中で、助手席の凱がわずかに首を動かした。
一瞬、バックミラー越しに視線が交差したような気がした。
暗闇の中で光る鋭い瞳が、奏太の隠している熱を見透かしているようで、心臓が大きく跳ねる。
しかし凱はすぐに視線を外し、再び深く目を閉じた。
タイヤがアスファルトを擦る単調な音だけが、永遠に続くように車内に響いていた。
◆ ◆ ◆
ホテルに到着したのは、深夜の二時を回った頃だった。
フロントでのチェックインを済ませ、メンバーたちは無言のままエレベーターへと乗り込む。
狭い箱の中に五人が押し込まれると、空気の薄さがさらに際立った。
奏太は一番奥の壁に背中を預け、うつむいたまま自分のつま先を見つめていた。
すぐ隣には凱が立っている。
腕が触れ合いそうなほどの距離から、あの冷たい香りが容赦なく奏太の鼻腔をくすぐる。
熱を持った体が、凱の体温を求めて微かに震えるのを必死に押さえ込んだ。
エレベーターが目的の階に到着し、重い音を立てて扉が開く。
瞬と結が足早に廊下へと出て行き、深がそれに続く。
奏太も早くこの場から逃れようと足を踏み出したが、すれ違いざまに凱の肩がわずかに触れた。
ビクッと肩をすくめた奏太に対し、凱は足を止めて振り返った。
廊下の薄暗い照明の下で、凱の瞳が奏太の顔をじっと見据えている。
「顔色が悪い。休め」
低く、抑揚のない声だった。
しかし、その言葉の裏側に隠された不器用な何かを感じ取り、奏太の胸がギュッと締め付けられる。
解散を宣言し、すべてを突き放そうとしているくせに、どうしてそんな言葉をかけるのか。
奏太は喉まで出かかった言葉を飲み込み、ただ小さく頷くことしかできなかった。
凱はそれ以上何も言わず、自分の部屋へと歩いていく。
遠ざかる背中を見送りながら、奏太は壁に手をついて荒い息を吐いた。
自分の部屋のカードキーを震える手で差し込み、扉を開ける。
真っ暗な室内に入ると同時に鍵をかけ、ベースケースを床に放り出した。
壁に寄りかかったままずるずると座り込み、両手で顔を覆う。
薬の効果が完全に切れ、体温が急激に上昇していくのがわかる。
視界がぐらぐらと揺れ、耳の奥で凱の声が何度もリフレインしている。
熱い息を吐き出しながら、奏太は這うようにしてベッドへと向かった。
シーツの上に倒れ込むと、冷たい布の感触が火照った肌にわずかな安らぎを与える。
目を閉じると、ステージでライトを浴びる凱の姿が鮮明に浮かび上がった。
あの声の隣で音を鳴らしたい。
そのためなら、どんな痛みも我慢できると思っていた。
しかし、Ωとしての本能が、音楽とは別の次元で凱を求めて泣き叫んでいる。
熱に浮かされた頭で、奏太はシーツを強く握りしめた。
孤独な密室の中で、微かな甘い匂いが静かに立ち上り始めていた。




