第1話「残響の不協和音」
登場人物紹介
◇叢雲奏太
人気ロックバンドのベーシスト。
性別はΩだが、それを隠して活動している。
音楽への情熱は人一倍強く、凱の声を誰よりも理解し、一番近くで支えたいと願っている。
◇宵待凱
カリスマ的な魅力を持つバンドのヴォーカル。
性別はα。
心を震わせる歌唱力と強烈な存在感でファンを魅了する。
奏太の才能を深く愛しているが、ある理由から突如バンドの解散を宣言する。
◇星野瞬
バンドのギタリスト。
性別はβ。
明るいムードメーカーであり、個性豊かなメンバーを繋ぐバランサー的役割を担う。
◇藍堂結
バンドのドラマー。
性別はβ。
口数は少ないが、リズム隊として奏太のベースを深く信頼し、背中を預け合っている。
◇千歳深
バンドを支える敏腕マネージャー。
性別はβ。
メンバーの体調や心理状態を冷静に見守り、常に的確なサポートを行う。
地下特有の湿気を帯びた重い空気が、古びたコンクリートの壁を伝い、淀んだ底へと沈み込んでいく。
空調の鈍いモーター音が絶え間なく鳴り響くが、肌にまとわりつく粘ついた熱気は一向に引く気配を見せない。
鏡の前にパイプ椅子を引き寄せて座る叢雲奏太は、膝の上に横たえたベースの弦をゆっくりと一本ずつ弾いた。
指先から伝わる太く重厚な振動が、乾いた空気を震わせ、骨の髄まで深く響いていく。
四本の弦が持つ張力を指の腹で確かめながら、奏太は小さく息を吐き出した。
張り詰めた空気の中で、わずかな疲労感が首筋から肩にかけて重くのしかかる。
傍らの傷だらけのテーブルに置かれた小さなペットボトルを手に取り、生ぬるくなった水を一口だけ喉の奥へと流し込んだ。
視線を落とした先には、銀色のシートから押し出されたばかりの白い錠剤が一つ、照明を弾いて鈍く光っていた。
『薬の量を増やすべきかもしれない』
心の中でそうつぶやきながら、奏太は二本の指で小さな錠剤をつまみ上げた。
指先に触れる粉っぽい感触が、絶対に隠し通さなければならない自身の秘密を無言で突きつけてくるようだった。
Ωという性別を偽り、男たちの熱気が渦巻く過酷なバンドという場所で生き残るために、この小さな錠剤は命綱そのものだった。
ここ数日、周期を抑え込むはずの薬の効き目が目に見えて弱くなっているように感じる。
体の奥底で微かな熱がくすぶり続け、ふとした瞬間に甘い匂いが立ち上るのではないかという恐怖が常につきまとっていた。
残りの水と一緒に錠剤を一気に飲み込むと、喉の奥にわずかな苦味が張り付いた。
「奏太。チューニング終わったか」
不意に背後から声が掛かり、奏太は姿勢を正して振り返った。
「ああ。問題ない」
そこに立っていたのは、ギタリストの星野瞬だった。
明るく染められた髪をラフにかき上げながら、瞬は自分のギターを抱えて人懐っこい笑みを浮かべている。
その背後では、ドラマーの藍堂結がスティックを両手に持ち、無言でラバー製の練習パッドを軽く叩いてリズムを確かめていた。
結の刻む均等で狂いのないリズムが、楽屋の淀んだ空気を少しだけ引き締めていく。
「今日のハコ、音が回るから中音のバランス気をつけような」
瞬の言葉に、結は手元を見たまま小さく頷いた。
「低音が潰れないように、キックの音作りを少し硬めにしてある」
結の低く落ち着いた声が響き、奏太は自分のベースの音色とドラムの相性を頭の中で瞬時にシミュレーションした。
「助かる。ベースの輪郭がぼやけると、全体のノリが重くなるから」
奏太がそう答えると、結はスティックの動きを止めて顔を上げた。
「奏太の音は埋もれない。俺がそうさせない」
短く言い切る結の言葉には、リズム隊として長い時間をかけて背中を預け合ってきた確かな信頼が込められていた。
楽屋の重たい扉が開き、マネージャーの千歳深が静かな足取りで入ってきた。
隙のないスーツ姿の深は、手元のタブレットに視線を落としながら室内の状況を見渡す。
「開演まであと十五分。フロアの熱気がすごいことになっていますよ。客席は満員です」
深の冷静な声の奥に、初日を迎えた高揚感が微かに滲んでいた。
「凱はどこだ」
奏太が尋ねると、深はタブレットの画面から顔を上げて扉の方へ視線を向けた。
「廊下で精神統一をしています。もうすぐ来るはずです」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、金属製の扉がゆっくりと押し開かれた。
室内の空気が一瞬にして凍りつき、そして張り詰める。
姿を見せたのは、ヴォーカルの宵待凱だった。
黒を基調とした細身の衣装をまとい、伏せられた長い睫毛が鋭い眼差しを隠している。
長身から発せられる気配は、周囲の酸素をすべて奪い去ってしまうほどに濃密で息苦しかった。
凱が足を踏み入れた瞬間、微かに鼻をかすめる香りがあった。
冷たい夜の空気のような、鋭く澄み切った匂い。
それは凱が生まれ持ったαとしての性質を無言で主張する、特有のフェロモンだった。
薬を飲んだばかりだというのに、奏太の首筋にじわりと冷たい汗が伝う。
凱の放つ香りに触れるたび、体の芯が共鳴するように疼き出すのを感じる。
それを悟られないよう、奏太はベースのネックを握る手に力を込めた。
凱は誰とも目を合わせず、部屋の中央に置かれた使い古されたソファに深く腰を下ろした。
「凱。喉の調子はどうだ」
深の問いかけに対し、凱は目を閉じたまま短く息を吐いた。
「悪くない。いつも通りだ」
低く響く声には、一抹の迷いも感じられない。
その声を聞くだけで、奏太の胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
凱の声の隣で音を鳴らすこと。
それが奏太にとってのすべてであり、生きる理由そのものだった。
どれほど自分の体が変化しようとも、この場所だけは手放したくないと言う強い執着が、奏太の心を支配している。
◆ ◆ ◆
客席の照明が落ち、暗闇の中に青いスポットライトが幾重にも交差する。
床を震わせるような歓声がうねりとなり、ステージの袖に待機する奏太の鼓膜を激しく打った。
湿気を帯びた空気が、観客の熱気を吸ってさらに重さを増し、肌にまとわりついてくる。
結がドラムセットに座り、スティックでカウントを高く打ち鳴らした。
乾いた木音が響き渡ると同時に、瞬のギターが鋭いフィードバック音を上げて空間を切り裂く。
奏太は大きく息を吸い込み、ベースの太い弦を力強く弾いた。
重厚な低音がアンプから放たれ、床板を伝って足の裏から全身へと駆け巡る。
頭上の照明が一斉に点灯し、眩い光のシャワーがステージ全体を照らし出した。
歓声が鼓膜を破らんばかりに最高潮に達した瞬間、ステージの中央に凱がゆっくりと歩み出る。
マイクスタンドを両手で握りしめ、凱は空を仰ぐようにして声帯を震わせた。
マイクを通した声が、空気を切り裂くように会場の隅々へと広がっていく。
その声には、聞く者の感情を根こそぎ奪い取るような凄まじい引力があった。
奏太は凱の背中を見つめながら、ベースの指板を滑るように指を動かす。
凱の歌の呼吸に合わせ、音の隙間を縫うように緻密なリズムを刻んでいく。
激しいビートの中で、凱と奏太の音が完全に絡み合い、一つの巨大なうねりとなってフロアへ流れ込む。
凱が振り返り、一瞬だけ奏太と視線が交錯した。
照明の熱に照らされた凱の瞳の奥に、暗く燃えるような熱が宿っている。
視線が絡んだほんの一瞬、奏太の心拍数が跳ね上がり、呼吸が浅くなる。
音楽と言う言語を介して、二人の魂が直接触れ合っているかのような錯覚に陥る。
凱の声が高音へと跳躍し、それに呼応するように奏太のベースが唸りを上げる。
瞬のギターが旋律を鮮やかに彩り、結のドラムがすべてを力強く支える。
誰一人として欠けることのできない、完璧な均衡がそこにはあった。
汗が目尻を伝い、視界が塩辛く滲む。
息をするのも苦しいほどの熱量の中で、奏太はひたすらに凱の声を追い続けた。
この時間が永遠に続けばいいと、心の底から願いながら。
◆ ◆ ◆
鳴り止まないアンコールの声援を背に、メンバーたちは汗だくになって楽屋へと戻ってきた。
扉が閉まった瞬間、外の喧騒が嘘のように遮断され、耳鳴りだけが鼓膜に残る。
奏太はベースをスタンドに立てかけ、首に巻いたタオルで顔の汗を乱暴に拭った。
過呼吸気味に肩で息をしながら、用意されていた冷えたスポーツドリンクを一気に飲み干す。
瞬はソファに倒れ込み、天井を仰ぎながらくぐもった笑い声を上げた。
「最高だった。今日の客、ノリがえぐかったな」
結もドラム用のグローブを丁寧に外しながら、静かに同調する。
「ああ。中音のバランスも完璧だった」
深が新しいタオルと冷たい水の入ったボトルを持って、メンバーたちの間を素早く行き来する。
「お疲れ様です。初日の手応えとしては十分すぎるほどですね。明日の移動に備えて、早めに撤収の準備をお願いします」
深の言葉に、楽屋の空気が少しだけ安堵に包まれた。
しかし、その和やかな空気を引き裂くように、部屋の隅の暗がりに立っていた凱が静かに口を開いた。
「話がある」
低く、背筋が凍るほど冷ややかな響きを持った声だった。
熱を帯びていた楽屋の空気が、急激に温度を下げていくのを感じる。
奏太はタオルを持ったまま動きを止め、凱の方へ視線を向けた。
凱は伏せていた目を上げ、真っ直ぐにメンバーたちの顔を順番に見回す。
その視線はどこか遠くを見ていて、ひどく疲労しているようにも見えた。
「この全国ツアーの最終日をもって、俺たちは解散する」
淡々と紡がれた言葉の意味を、奏太の脳が理解するのを完全に拒絶した。
一瞬の静寂が降り、誰かの浅い呼吸の音だけが不自然に大きく聞こえる。
瞬がソファからバネ仕掛けのように跳ね起き、信じられないというように目を見開いた。
「はあ。解散って、お前、何言って。ふざけんなよ。理由も言わずに解散って、納得できるわけないだろ」
瞬の言葉を遮るように、凱は冷酷なまでに静かな声で続ける。
「決めたことだ。理由は聞かないでくれ。このツアーが終わったら、俺は歌を辞める」
凱の言葉が、重い石のように楽屋の床に落ちた。
結は固く口を閉ざし、手元のグローブを白くなるほど強く握りしめている。
深は手にしたタブレットを胸に抱いたまま、微動だにしない。
奏太は足元が崩れ落ちるような錯覚に陥り、壁に手をついて辛うじて体を支えた。
呼吸がうまくできず、肺の奥が焼けるように痛い。
数分前まで、あんなにも激しく音をぶつけ合い、魂を削るようなライブをしていたのに。
凱の隣でベースを弾くことが、奏太のすべてだったのに。
「どうしてだ。あんなに、あんなに完璧だったじゃないか」
奏太の口から、掠れた声がこぼれ落ちる。
凱は奏太の顔を見ようとせず、扉へと向かって静かに歩き出した。
「ツアーの残りの日程は、予定通りこなす。それだけだ」
振り返ることもなく、凱は冷たい金属の扉を開けて出て行った。
閉まった扉の重たい音が、楽屋に残された者たちの心を無残に打ち砕いた。
奏太は壁に背中を預けたまま、ずるずると床に座り込む。
心臓が不規則に跳ね、耳の奥で自分の脈打つ音が不気味に響いている。
凱の残した微かな匂いが、まだこの部屋に色濃く漂っていた。
それなのに、あの熱を帯びた声はもうすぐ消えてしまうという事実が、容赦なく奏太を絶望の淵へと突き落としていた。




