最終ラウンド
戦場に、一瞬の静寂が訪れる。
アイギスのテントから、異変に気づいた隊員たちが蟻の這い出るような勢いで一斉に逃げ出し始めた。
その光景を見た老魔女の口角が、吊り上がる。
「ひゃっひぇっひぇ! 景気づけにいい演出じゃないか!」
老婆は俺を放置し、逃げ惑う隊員たちを「遊ぶ」ように殺戮し始めた。
一人、また一人と、紙細工のように肉体が引き裂かれていく。
「やめろッ!!」
俺は叫び、短剣を振り抜いて斬撃を放った。老魔女の背中を狙った必殺の刃。
だが、老婆は背後に目があるかのような動きで、それを指先一つで弾き飛ばした。もはや斬撃の速度にすら、彼女の肉体は適応しきっていた。
「お前と私ゃのリングを作ってんだ、邪魔しないで貰えるかい?」
数分足らず。
何十人もいた隊員たちは、悲鳴を上げる暇さえ与えられず、全員が物言わぬ骸へと変えられた。アイギスの陣地は、文字通りの血の海と化した。
返り血を全身に浴び、肌をどす黒く光らせた老魔女が、死体の山を背にして俺に向き直る。
その瞳に宿る殺意は、もはやこの世の生物のそれではなかった。
老魔女は、血に濡れた手を俺に向けて広げ、言った。
「さぁ、『最終ラウンド』と行こうかい?」
周囲には、もう動く者は誰もいない。
折れた腕、潰された肋骨。俺は満身創痍の体を引きずりながら、最後の一戦に向けて立ち上がる。
「なんで、タイマンに拘るんだ……」
俺は血の混じった唾を吐き捨て、徐に問いかけた。
この地獄のような状況で、なぜこいつは「リング」などという言葉を使い、一対一の形式を整えようとしたのか。
「私ゃが初めて人を殺した時が、1対1だったからだよ」
老婆は事も無げに答えた。九歳の時に刻まれたその原体験が、一世紀近い殺戮人生の核になっているのだ。歪んだ回顧主義。彼女にとっての殺しは、常にその瞬間の再現でなければならない。
周りにはもう、生きている者の気配はない。
風の音さえ止まったかのような静寂の中、俺と老魔女の言葉だけが、冷たく響き渡る。
俺は、腰につけていた無線機をゆっくりと引き剥がし、地面に捨てた。
カチ、とコンクリートを叩く硬い音がして、無線機は転がっていく。
ノイズの向こうから指示をくれる隊長も、背中を任せられる須藤さんも、俺の身を案じてくれる隊員たちも、もういない。
理解した。
結局、俺は最初と同じ、「独り」に戻ったのだ。
だが、絶望はなかった。
悲しみも、痛みも、今はどこか遠い場所の話のように思える。
ただ、この目の前の怪物を仕留める。
母さんとの約束を果たすために。
「……そうかよ」
俺は短剣の柄を、折れた左腕を庇うように右手で固く握り直した。
極限まで研ぎ澄まされた集中力が、再び世界の時間を緩やかに引き伸ばし始める。
「じゃあ、始めよう。お前の人生の最終ラウンドだ」
俺は、はらわたが煮えくり返るような怒りを、冷徹な一突きへと変えた。
狙いはただ一点、老魔女の首。
だが、この怪物がそれを見逃すはずがない。老婆は嘲笑いながら、鋼のような腕を俺の刃へと伸ばす。
(――読んでたよ、その反応は)
俺は刃を突き立てる寸前、能力の対象を老魔女ではなく、足元の「大地」へと切り替えた。
俺が地面を蹴った瞬間、アスファルトの隙間から、まるで時間が何千倍にも早回しされたかのように、草木が猛烈な勢いで芽吹き、巨大な樹木へと変貌していく。
「なっ……!?」
一瞬にして視界を埋め尽くす、青々とした葉と絡み合う枝。
老魔女は突然の目隠しに驚愕の声を上げたが、即座に適応し、異能で強化された腕で枝を斬り、根を引っこ抜きにかかる。
だが、加速した植物の命の奔流は、老婆の破壊を遥かに凌駕していた。
斬っても、引き裂いても、それ以上の速度で新たな蔦が伸び、枝が分かれ、老婆の四肢を絡め取っていく。
「邪魔じゃあ! こんな草っ切れが、私ゃを止められると思うてか!」
老婆が咆哮し、筋肉をさらに膨張させる。
しかし、俺はその緑のカーテンの向こう側で、短剣に「時」の力を限界まで凝縮させていた。
「ただの草じゃない。お前の『適応』が追いつかないほど、未来へ進んだ命だ」
視界を完全に奪われた老魔女。
その防御に僅かな綻びが生じるのを、俺の目は見逃さなかった。
俺は、己の肉体が崩壊する予兆を完全に無視した。
加速に加速を重ね、世界が色を失い、完全に静止する極限の領域へと足を踏み入れる。
(俺の体なんてどうでもいい……こいつを殺す、それだけだ)
限界まで引き延ばされた時間の中で、一歩踏み出すごとに筋肉が断裂し、毛細血管が弾けて全身から血が噴き出す。だが、その痛みすら思考の加速に置いていかれた。
俺は植物の檻に捕らわれた老魔女へ向かい、最大限の助走をつけて短剣を振り抜く。
手応えは、あまりに硬い。
「まだだ……まだ速度が足りない……!」
渾身の斬撃でさえ、老婆が纏う何十層もの適応筋肉の、その表面をわずかに削り取ったに過ぎなかった。
俺は足を止めない。植物が老婆の四肢を縛り付けているこの瞬間を逃せば、次はない。
俺は地を蹴った。加速の余波でアスファルトが分子レベルで崩壊し、衝撃波が虚空を震わせる。
東京を一周。
街の景色が光の帯となって背後に消え、再び老魔女の背後から斬りかかる。
まだ、足りない。
一度、深く斬るために、俺は何時間も、何十キロも走り続け、エネルギーを一点に凝縮させる。
現実の時間軸では、一秒すら経過していない。瞬きよりも短い刹那の中で、俺は孤独なマラソンを繰り返す。
肺が焼け、心臓が爆発しそうな鼓動を刻む。
一振り。また一振り。
走り続け、斬り続け、層を一枚ずつ剥ぎ取っていく。
「……もっと……もっと速く……!!」
俺の意識は、もはや人間としての形を保っていなかった。
ただ「老魔女を屠る刃」という一つの現象と化し、静止した東京の街を、血の轍を引きながら駆け抜ける。
「そんな刃、効かないわ!」
老魔女が、植物の拘束を強引に引きちぎりながら叫ぶ。
(削られた筋肉を増強して、補う……!)
老婆の意志に呼応し、斬り裂かれた先から新たな筋肉の繊維が、蠢くミミズのように盛り上がり、傷口を埋めようとする。
だが、その再生される筋肉ごと、俺の刃は一切の慈悲なく刻み続ける。
(筋肉の再生が、追いつかない……!)
老婆の表情に、初めて本物の焦燥が浮かんだ。再生する端から、俺の刃が肉を削ぎ、骨を断つ。老魔女は俺の「斬撃」そのものに上書きするように適応を試みようと、細胞を組み替えようとする。
しかし。
(適応がされない……!?)
当然だ。俺は斬撃がその肉体に触れる直前、能力を「解除」している。
加速によって得られた凄まじい「慣性」と「運動エネルギー」をそのままに、斬る瞬間にだけ俺を物理法則の世界へと引き戻す。彼女が適応しようとしているのは「時の能力」であって、目の前の「純粋な物理的衝撃」ではない。
「5000ポイント程度のクソガキがぁぁぁぁッ!!」
老魔女が咆哮し、ついに拘束していた植物を粉々に粉砕した。
だが、遅い。俺はもう、この戦いを終わらせるための「土俵」を作り終えていた。
俺の意識は、すでに東京を飛び越えていた。
日本列島を南北に縦断する。
一秒足らずの間に、北海道から沖縄までを何十往復も駆け抜け、そのすべての移動距離、すべての重力、すべての加速を、この一点に凝縮させる。
大気が摩擦熱でプラズマ化し、俺の背後には青白い炎の尾が引かれる。
もはや俺という存在は、日本列島の質量を背負った、ただの一筋の光と化していた。
「あばよ、ババァ……。地獄でみんなに謝ってこい」
列島横断の果てに得た、神の領域の速度。
それを、身動きの取れなくなった老魔女の首へと、真正面からぶち当てた。
衝撃波が新宿の空を真っ二つに割り、周囲のビル群のガラスが一斉に粉砕される。
適応も、増強も、再生も。
そのすべてを過去の遺物へと変える、圧倒的な一撃が老婆を飲み込んだ。
「クソガキッ!」
老魔女の断末魔が、空気を震わせた。
だが、その声も俺の刃が通る速度には追いつかない。何十層もの守りを削ぎ落とされ、剥き出しになった老婆の細い首を、一筋の閃光が鮮やかに断ち切った。
宙を舞う首。何十メートルも飛ばされたそれは、地面を転がってもなお、執念深くその瞳に意識を宿していた。
「まだ……まだ……終わってない……」
斬られた首の断面から、蠢く筋肉の繊維が触手のように伸び、無理やり身体を再構築しようと足掻いている。だが、その動きはあまりに鈍い。神の領域の加速の代償か、彼女が積み上げてきた一世紀分の命の灯火が、今まさに吹き消されようとしていた。
俺は、血の涙を流すような全身の痛みを引きずりながら、転がった頭部のもとへと歩み寄った。
逃がさない。その最期の瞬間を、この目で見届けるために。
ぐちゃりと、土にまみれた老婆の頭を足で踏みつける。
上から冷徹に見下ろす俺の視線と、地を這う老魔女の視線が、血の海の中で交差した。
老魔女の顔は、この世のすべての呪いを凝縮したような憎悪に満ちていた。
肺がないはずの口が、最後の力を振り絞って震える。
「地獄で……待っ……て……る……ぞ……」
それが、一世紀を殺戮に捧げた怪物の遺言だった。
直後、見開かれたままの瞳から急速に光が失われ、その形を保っていた不自然な筋肉の隆起が、枯れ葉のように萎んでいく。
静寂が、新宿を包み込んだ。
「……ああ、地獄で会おうぜ」
俺は小さく吐き捨て、踏みつけていた力を抜いた。
風が吹き抜け、戦いの熱を奪っていく。
仲間はもういない。身体もボロボロだ。
だけど、俺は生きている。
母さんとの約束を守り、この地獄のようなタイマンに、俺はやっと勝ったんだ。




