覚醒
「まだじゃ……まだ終わらない!」
老魔女が、裂けた腹部から溢れ出る内臓を、うごめく筋肉の触手で無理やり押し戻した。傷口が強制的に縫い合わされ、凄まじい熱気が彼女の体から立ち昇る。
死の淵に立たされたことで、彼女の「適応」は生物の限界を超え、さらなる深淵へと到達していた。
「良い……気分が良いぞ!」
狂喜の叫び。致命傷を与えたはずなのに、その顔は長年追い求めていた宝物を手に入れた子供のような、純粋で醜悪な歓喜に満ちていた。
刹那、老魔女が忽然と姿を消した。
(――どこだ!?)
咄嗟に仲間の方向へ視線を飛ばす。空中に散らばっていたのは、粉々に砕け散った光の兵士たちの残骸。そして、その光の粒子が舞い落ちる中心――呆然と立ち尽くす小森さんの目の前に、老魔女はいた。
「皆んッ!」
小森さんの叫びが届くよりも早く、老魔女の巨大な手が小森さんの頭部を包み込む。
迷いはなかった。熟した果実を潰すような無造作な動作で、彼女は小森さんの頭を握り潰した。
「小森ィィィィッ!!」
隊長の裂帛の叫びが新宿に響き渡る。
長谷川さん、春瀬さん、そして小森さん……。次々と奪われていく仲間の命。あまりの惨劇と、立て続けに襲い来る喪失のショックに、俺の身体は金縛りにあったように動かなくなった。
「誰なのか知らないが、なんか胸糞悪い!」
記憶を失ったはずの須藤さんが、本能的な嫌悪感を剥き出しにして叫ぶ。大量の王水が激流となって老魔女を飲み込むが、老婆はその酸の海の中を楽しげにバタフライで泳ぎ始めた。もはや王水という「現象」にすら、彼女の筋肉は適応し、無効化していた。
「なんだこいつ!」
老魔女が水面を割るように跳躍した。両手の指を固く組み、巨大な槌と化した拳を須藤さんの脳天へと振り下ろす。
コンクリートが粉々に弾け、爆煙が晴れたそこには、須藤さんの姿はなかった。ただ、地面にこびり付いた鮮血だけが、彼がそこにいた証として残されていた。
「ひゃっひぇっひぇ! 次はあんただよ、隊長さん!」
老魔女が獲物を定めるように隊長へ向き直る。だがその時、地を這う血濡れの腕が、老魔女の足首をガッチリと掴んだ。
「タダじゃ……死なねぇよ……」
潰されたはずの須藤さんだった。
(すまん……やっと思い出したよ……西村……)
最後に残った意識。彼は自らの血液を、超高濃度のニトログリセリンへと一瞬で変質させた。
「――っ!?」
凄まじい大爆発が新宿を白光で塗り潰した。
爆風に煽られ、俺の身体は枯れ葉のように吹き飛ばされる。
砂埃が舞い、熱気が立ち込める死の静寂の中。
土煙を切り裂いて、あの禍々しい笑い声が聞こえてきた。
「ひゃーっひぇっひぇっひぇっひぇ! 爆発如きじゃ、私ゃの体は破壊出来ないよ」
爆煙の中から現れたのは、衣服こそ消し飛んでいるものの、爆発の熱を吸収して赤銅色に輝く「適応筋肉」を纏った老魔女の姿だった。
生き残ったのは、俺と、膝をつく隊長の二人だけ。
廃墟と化した戦場に、絶望だけが積み重なっていく。
「須藤……西村……小森……春瀬……長谷川……新島……」
隊長が、失った部下たちの名を血を吐くように呟く。だが、老魔女はその感傷ごと踏みにじるように、太い腕を振り抜いた。
「最後は坊や……お前だけだよ」
老魔女が、血に濡れた指をパキパキと鳴らしながら歩み寄ってくる。
(誰も助けられない……俺は……何の為に……)
膝をつき、どす黒く腫れ上がった左腕を見つめる。視界が涙と血で歪む。
その時、脳裏に一通のメッセージが浮かんだ。スマホの画面越しに何度も見た、母さんの言葉。
『絶対生きて戻ってくるんだよ! お母さんとの約束だよ!』
(そうだ……母さん……父さん……)
あの日、メッセージで交わした約束。
ここで諦めることは、仲間を失うこと以上に、残された家族を裏切ることになる。
俺は、震える脚に力を込め、ゆっくりと、だが確実に立ち上がった。
「死ぬ覚悟が出来っ」
老魔女が勝ち誇った顔で、俺に最後通牒を突きつける。
その言葉の終わりを待たず、俺は折れて感覚のない左腕で、足元の石ころを掴み、全力を込めて放った。
空気を切り裂くような音が響き、老魔女の片耳が鮮血と共に抉り飛ばされた。
「まだ喋ってる途中だろうが! 舐めんなクソガキ!!」
耳を抑え、顔を真っ赤にして激昂する老魔女。
怒りに任せて振り回される、巨大な拳。
だが、今の俺の目には、その破壊の塊がまるで止まっているかのように見えていた。
俺は最小限の動きだけで、その拳を、風を感じるほどの距離で避ける。
「……遅いな」
無数の拳が雨あられと飛んでくる。
かつての俺であれば、反応すらできずに塵にされていただろう。だが、今は違う。未来視という「答え合わせ」を使わずとも、空気を震わせる殺気の奔流が、手に取るように見えた。
「そうか……お前も”こっち側”に近づいたか!」
老魔女が歓喜に顔を歪める。命のやり取りを至高の快楽とする、狂人の領域。
「ごめんけど、俺に快楽で人を殺すような心は持ってない」
俺は淡々と回避し続ける。止まることのない老魔女の猛攻。その嵐のような拳の合間を縫うように、老婆が言葉を投げかけてきた。
「何故このゲームが始まったか分かるかい?」
「あ? 知らねぇよ」
「私ゃの頭の中で突然声が響いた。その内容は『まだ人を殺したいか』だったよ」
回避を続けながら、俺の背筋に冷たいものが走る。
「お前……ゲームが始まる前から殺していたのか!」
隙を突き、俺は老魔女の腹部へ鋭い連撃を叩き込んだ。
「うっ……! あぁ、私ゃ何人も殺してきた。初めて殺したのは第二次世界大戦の時、私ゃ九歳で人を殺した」
重い手応え。だが老婆は吐血しながらも、懐かしむように語り続ける。
「その時知った。命を奪われる寸前のもが動かなくなる瞬間、あれ何よりも心地良いと……それからは八十歳になるまで、ずっと人を殺し続けてきたよ」
「…………ッ!」
「だけど、ある日……一人の男を殺そうとした時、反撃に遭って逃げられた。その時悟ったよ……『歳』なんだとね」
俺は短剣を片手に構え直し、決して警戒を解かない。目の前にいるのは、ただの怪物ではない。一世紀近く、純粋な殺意だけで生きてきた「災厄」そのものだ。
「その後、十年以上も人を殺さない退屈な生活を送っていたよ……。そして、あの『声』が聞こえた。その声はこう言っていたよ……『汝、我等と協力すべし、さすれば汝の願いは聞き届けられん』。私は問答無用で承諾したよ」
「つまり……お前は退屈凌ぎで、このゲームを開催したのか!」
「人聞きの悪いことを言うんじゃない!」
老魔女の咆哮と共に、巨大な瓦礫が投げ飛ばされる。だが、今の俺を捉えるにはあまりに鈍い。俺は首を僅かに傾け、それをやり過ごす。
「その声の正体を言え!」
「私ゃには分からない。男なのか女なのか、子供なのか老人なのかさえ分からない……そんな声だったよ」
俺は足元の石を蹴り上げ、老魔女の眉間に向けて弾いた。
老魔女はそれをあっさりと受け止めると、俺の速度に適応した「異常な踏み込み」で距離を詰め、拳を振り下ろす。
咄嗟に剣を交差させて受け止める。
凄まじい衝撃が腕を伝わり、足元のアスファルトが同心円状に爆ぜた。
足元の崩れるアスファルトに意識が削がれた、その一瞬。
老魔女はその隙を、飢えた獣のような速さで突いてきた。
俺の腹部に重戦車のような拳がめり込む。
体内で肋骨が「ミシミシ」と数本へし折れる嫌な感触が伝わった。だが、咄嗟に筋肉を強張らせ、衝撃を逃がしたのが幸いした。折れた骨が内臓を突き破る致命傷だけは、辛うじて免れた。
しかし、その一撃の威力は凄まじかった。
俺の身体は砲弾のように弾き飛ばされ、着地したのは、皮肉にもアイギスのテントが整然と立ち並ぶ陣地のど真ん中だった。
(しまった……躱すのに必死で、場所を誘導されていた……!)
背中からテントの支柱や機材を薙ぎ倒しながら、俺は冷たい地面に叩きつけられた。
「ぐふぁっっ……! ぁ、が……っ!!」
口から熱い血が溢れ出す。
折れた左腕、砕けた肋骨、そして極限状態の疲労。
俺の身体はとうに限界を超え、細胞の一つ一つが「もう動くな」と悲鳴を上げていた。
倒れた俺の視界の先。
テントをなぎ倒しながら、老魔女がゆっくりと、確実にこちらへ歩を進めてくる。
「ひゃっひぇっひぇ……。いい場所だねぇ。ここはあんたたちの仲間の残骸も、守るべき正義も、全部詰まった墓場だよ」
瓦礫を足蹴にし、老婆が俺を見下ろしていた。




