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適応

「ケンヤ! 前!」


隊長の叫びが、酷い耳鳴りの中で遠くエコーのように響く。

視界の端で、老魔女の「適応」された拳が空気を爆ぜさせながら迫っていた。本来なら、折れた腕の激痛と絶望で指一本身動きが取れないはずだった。


だが、俺の意識はすでに自分の体のことなど放棄していた。

 

(――どうにでもなれ……)


脳が焼き切れるほどの負荷を無視し、能力を限界まで絞り出す。加速した思考と強制的な肉体操作が、折れた腕の痛みさえも情報のノイズとして切り捨てる。


轟音と共にアスファルトを砕いた老魔女の拳を、俺は紙一重ですらなく、流れるような動作で最小限の軌道を描いて回避した。


「速い……」


老魔女が、初めて驚愕の色を浮かべてそう呟いた。


これまでは未来視を使い、必死の思いでギリギリ避けていたはずの攻撃。だが、今の俺は、無意識のうちに相手の初動を見切り、余裕を持ってその死線を通り抜けていた。


感情が消え、ただ冷徹な殺意だけが神経を研ぎ澄ませていく。


「長谷川さんの分……。今、返すから」


俺は低く、自分でも驚くほど冷え切った声で漏らした。折れてぶら下がった左腕など構わず、右手の短剣に「時」の力を凝縮させる。


(嫌な予感がするわね……)


老魔女の直感が警鐘を鳴らした。このガキの気配が、先ほどまでとは根本的に違う。彼女は瞬時に距離を取ろうと、強靭な脚力で地を蹴ろうとした。


「させない!」


小森さんの鋭い声が響く。どこに潜んでいたのか、瓦礫の影から現れた無数の兵士たちが、死を恐れぬ執念で老魔女の巨体に群がった。一人一人が重しとなり、その手足に縋り付いて動きを封じる。


「邪魔じゃぁッ!!」


老魔女が咆哮し、全身の筋肉を爆発的に膨張させた。群がっていた兵士たちは、紙屑のように引き裂かれ、粉々に砕け散る。だが、その瞬間だった。


「っ……!」


小森さんの身体に、凄まじい反動が襲いかかる。操っていた兵士たちが破壊された代償が、術者である彼女の肉体を蝕んだ。足先から這い上がった亀裂が、白磁の肌を割るようにして首筋まで走り抜ける。


小森さんの脚がガクガクと震え、耐えきれずにその場にしゃがみ込んだ。


「小森さん!」


春瀬さんの叫び。だが、小森さんが命を削って作り出したその「数秒」は、今の俺には永遠にも等しい時間だった。


俺は、動けない小森さんの横を通り抜ける。


視界の中、老魔女が体勢を立て直そうとする動きが、あまりにも鈍く、止まって見えた。


「大丈夫ですか? 小森さん……」


「うん……大丈夫」


呼吸を荒くしながらも、小森さんは必死に首を振った。その無事を確認した瞬間、俺の背後から隊長の鋭い声が飛ぶ。


「ケンヤ! よーやった!」


隊長が、地に伏せようとする老魔女に向けて両手をかざした。


【能力:方向下方ベクトル・ダウン


老魔女の巨体に、本来の重力を遥かに超える「下向きの力」が叩きつけられる。凄まじい衝撃音と共に、アスファルトがクレーター状に陥没し、老婆の身体が地面にめり込んだ。


「今や! 春瀬!」


その好機を、春瀬さんは逃さなかった。彼は老魔女の口元に狙いを定め、周囲の空気を凝縮して強制的に体内へと流し込む。内側から内臓を膨張させ、破裂させる――彼の持つ最も残酷で確実な殺し方。


だが、老魔女は地を這いながらも、醜悪な笑みを消していなかった。

 

彼女は一瞬で呼吸筋を超増強し、無理やり押し込まれた空気の奔流を、弾丸のような吐息として逆流させたのだ。


暴風に煽られ、春瀬さんの身体が木の葉のように吹き飛ばされる。彼は咄嗟に空気を操って体勢を立て直し、ふらつきながらも着地して前を見据えた。


しかし。


そこに、めり込んでいたはずの老魔女の姿はなかった。


(消えた!? いや、速すぎる……!)


老魔女は俺の「速度」にすら適応し、その筋肉を爆発的な瞬発力に特化させていた。


「春瀬さん!!」


俺の叫びが、廃墟のビルに虚しく響く。


次の瞬間、春瀬さんの背後に、巨大な肉の壁が立ち塞がっていた。


鈍い音が響き、老魔女の剥き出しの素手が、春瀬さんの腹部を無造作に貫通した。

鮮血と共に内臓が撒き散らされ、彼の口から大量の血が溢れ出す。


「……あ、…………っ……」


春瀬さんは薄れゆく意識の中で、最後の抵抗として目の前の老婆を吹き飛ばそうと手を伸ばした。だが、指先から溢れるはずの風は、もう形を成すことさえなかった。


長谷川さんに続き、春瀬さんまでもが。

目の前で、仲間が一人ずつ、無惨な肉の塊に変えられていく。


「ははは! 案外脆いもんだねぇ、あんたたちの『絆』ってやつは!」


老魔女は貫いた腕をそのままに、春瀬さんの身体を弄ぶように持ち上げた。


「「ババァ!!」」


俺と隊長の叫びが重なり、怒りに任せて老魔女へと肉薄する。だが、その猛攻を老婆は嘲笑うかのように受け流した。


「老人の事は敬いな!」


老魔女は、腕に貫かれたままの春瀬さんを、まるで不要なゴミでも捨てるように俺に向かって投げつけた。


「春瀬さん!」

俺は咄嗟に右手を伸ばし、飛んできた彼の身体を抱き止める。だが、腕の中に伝わってきたのは、温もりを急速に失い、重力に従うだけの絶望的なまでの重みだった。呼びかけても、その瞳が光を取り戻すことはない。


その直後、視界の端で隊長の身体が不自然に折れ曲がるのが見えた。


「――がはっ……!」


老魔女の裏拳をまともに喰らった隊長が、防弾ベストごと胸を叩き潰され、弾丸のような速度で俺の方へと吹き飛ばされてくる。


受け止める間もなく、隊長の体が俺に激突した。二人まとめてアスファルトの上を数十メートルも転がり、瓦礫の山に叩きつけられる。


「ぐ、あ……っ!!」


衝撃で意識が飛びかけ、それまで麻痺していた左腕の激痛が、さらに鋭い牙を剥いて戻ってきた。折れた骨が肉の中で暴れ、熱い血が袖口から溢れ出す。


「ハァッ……ハァッ……、隊長……! クソ、小森さんは……須藤さんは……!」


俺は血反吐を吐き出しながら、朦朧とする意識の中で仲間を探した。


視界は赤く染まり、耳鳴りがひどい。


目の前では、春瀬さんの返り血を浴びた老魔女が、さらに巨大に、さらに強靭にその肉体を変質させながら、一歩ずつこちらへ歩み寄ってくる。


「さて……次はどっちの首を捥いでやろうかねぇ」


絶望という名の闇が、新宿の街ごと俺たちを飲み込もうとしていた。

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