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俺は全神経を削りながら減速した世界を維持し、なりふり構わず「回れ右」をして逃走を図った。周囲の瓦礫が静止し、爆炎すらもゆっくりと揺らめく極限の静寂。


だが、背後から迫る重圧は一向に遠ざからない。


(……っ! なんで、なんでついて来れるんだよ!!)


肩越しに振り返った俺は、戦慄した。老魔女の額から飛び散る「汗」は、能力の影響を受けてスローモーションで宙を舞っている。つまり、この世界の時間は確実に遅くなっているのだ。


それなのに、老婆だけはこの遅滞した時空を無視し、通常時と変わらぬ――いや、それ以上の爆発的な推進力で俺の背中に肉薄している。


「無駄だよ、夕凪ケンヤ。お前がどれだけ『時』を弄ぼうと、私ゃの筋肉はそれすらも力ずくで踏み越えるんだよ」


(言葉が遅過ぎてなんて言ってるのか分かんねぇ…)


俺は焦燥に駆られ、足元に落ちていたコンクリートの塊を掴み、後ろも見ずに投げつけた。


しかし、加速した俺の腕力で放たれたはずの瓦礫は、彼女の「鋼の筋肉」に触れた瞬間、パチンと弾けて砂利へと変わった。蚊に刺されたほどの反応すら見せない。


俺は限界まで引き絞っていた能力を、一気に解除した。

視界を覆っていたスローモーションの膜が弾け、世界の速度が正常に戻る。その瞬間の反動を利用し、俺は全神経を足首に込めて真横へと跳んだ。


突進の勢いを殺しきれなかった老魔女が、アスファルトを重機のように削り取り、巨大な土煙を上げながら数メートル先で止まる。減速するその足跡は、深々と地面に刻まれていた。


「ハァッ……ハァッ……!!」


俺は膝に手をつき、肺が焼けるような呼吸を繰り返す。鼻からは絶え間なく血が滴り、視界の端が黒く欠け始めていた。


「逃げても無駄……抗っても無駄……。あんたに残された道は、私ゃの拳で塵になることだけさ!」


老魔女はゆっくりと振り返り、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。


その足音はもはや死のカウントダウンだ。彼女の全身を覆う50層の筋肉は、先ほどの時空斬を砕いた衝撃を完全に吸収し、微塵の疲労も見せていない。


(……どうする。斬撃は効かない、能力の中でも追いつかれる。……何か、何かまだ気づいていない『穴』があるはずだ……)


俺は震える手で短剣を握り直し、老魔女の「何かおかしい」挙動を必死に解析しようとする。

 

筋肉の鎧。


理不尽な速度。


そして、今気づいた。彼女が歩くたびに、周囲の瓦礫がわずかに振動している。それは単なる重みのせいじゃない。まるで、彼女自身が巨大な心臓となって、周囲のエネルギーを吸い上げているような……。


「さあ、年貢の納め時だねぇ、夕凪ケンヤ!」


老魔女が大きく腕を振りかぶる。その拳に、周囲の空気が凝縮され、凄まじい圧力が集まっていく。


背後から迫る衝撃に、俺の身体がふわりと浮き上がった。老魔女の拳か――そう覚悟した瞬間、聞こえてきたのは聞き慣れた、場違いなほど明るい声だった。


「や! 夕凪君無事!?」

 

「ケンヤ君! 生きてたんだ!」


視界の端に映ったのは、ボロボロになりながらも猛スピードで突っ込んできた一台の軽自動車。窓から身を乗り出し、必死に手を振っているのは春瀬さんと小森さんだ。


「春瀬さん! 小森さん!」


さらに運転席を見れば、ハンドルを必死に切りながら不敵な笑みを浮かべている長谷川さんの姿。彼らが、老魔女と俺の間に強引に車を割り込ませ、物理的に俺を突き飛ばして救い出したのだ。


「……次から次へと、私ゃの邪魔をするのかね?」


老魔女の低い声が、アスファルトを震わせる。


その顔はもはや怒りを通り越し、静かな殺意に満ちていた。血管が浮き出た50層の筋肉がピクピクと痙攣し、彼女を中心に不吉な熱気が立ち昇る。


「せっかくの『ご馳走』を台無しにされた気分だよ……。まとめて挽き肉にしてやろうかねぇ、ええ!?」


老魔女が地を踏みしめる。その一歩で、長谷川さんの運転する車のフロントガラスに、ピシリと亀裂が入った。


「夕凪君、乗って! こいつは僕らが引き受ける……なんて言いたいけど、正直この車じゃ一撃も耐えられないからね!」


春瀬さんが叫びながら、バックギアに入れる。


エンジンが悲鳴を上げるほどの急加速を試みる。しかし、それよりも早く老魔女の巨大な剛腕がフロントへ伸びた。


「あぁっ!? 車が……浮いてる!?」


老魔女が片手でボンネットを掴み、そのまま軽自動車のフロントを持ち上げたのだ。タイヤが空転し、ゴムの焼ける臭いが立ち込める。


「マジかよこのババァ!」


普段の冷静さをかなぐり捨てた春瀬さんの絶叫。老魔女の指がボンネットの鉄板を飴細工のように握り潰し、凄まじい握力でエンジンルームごと車体を圧縮し始める。長谷川さんの足元まで鉄板が迫り、全員が「潰される」と覚悟した、その時。


新宿の空を割り、大気を震わせる巨大な轟音が降り注いだ。それは爆発音とも、何かが超音速で飛来した音とも取れる、鼓膜を直接揺さぶるような音。


「今度はなんだ!?」


そのあまりの音圧に、老魔女の意識がコンマ数秒、空へと逸れた。掴んでいた腕の力がわずかに緩む。


「今よ! 脱出!!」


長谷川さんの叫びと同時に、俺たちは潰れかけた車体から転がり出るように脱出した。アスファルトを転がり、距離を取って空を仰ぐ。


「お前ら〜、さっきの音はなんや?」


瓦礫の山を乗り越え、土煙の中から現れたのは稔隊長だった。

 

全身傷だらけで、装備もボロボロ。だが、その瞳に宿る不敵な光だけは衰えていない。しかし、隊長の背後を見ても、先ほどの空を割るような轟音の主らしきものは見当たらなかった。


隊長ですら困惑するほどの音――。一体、何が今の衝撃を引き起こしたのか。


「……子供達は……やられたのか?……」


老魔女が、初めてその余裕の表情を消し、低く、唸るような声で呟いた。「子供達」とは、彼女が手塩にかけて育て、新宿の各地に配置したファミリーの幹部たちのことだ。

 

この戦場で、彼女の想定を上回る事態が起きている。


「さぁね、呼んでみれば?」


隊長は肩をすくめ、格上の老魔女を真っ向から挑発した。満身創痍のはずなのに、その佇まいはまるですべてを予見しているかのようだ。


「……チッ、癪だねぇ。どいつもこいつも、こざかしい真似を……!」


老魔女が再び拳を固めようとした、その時。


再び、先ほどよりも近い場所で爆音。

今度は音だけじゃない。新宿のビル群の合間から、巨大な「磁性の嵐」が荒れ狂いながらこちらへ向かってくるのが見えた。

それは、周囲の鉄屑を吸い寄せ、巨大な龍のようにのたうつ塊。


その嵐の中心に、虚ろな瞳で前だけを見据える一人の男の姿があった。


「……あれは、須藤さん……!?」


俺の声に、須藤さんがゆっくりと視線を向けた。だが、その瞳にはかつての冷静な知性はなく、どこか遠くの深淵を覗き込んでいるような、虚無の色が混じっている。


「……須藤……? あぁ……俺が須藤だ」


自分の名前を再確認するかのような、危うい呟き。仲間が一人、また一人とこの地獄の戦場に集まっていくが、須藤さんの周囲には近寄りがたいほどの負のエネルギーが渦巻いていた。


「そういえば……新島さんや西村さんが居ませんが……?」


ふと漏らした春瀬さんの問いに、場が凍りつく。


「新島は……死んだ。西村も見んな?」


稔隊長が、奥歯を噛み締めながら重く答えた。その言葉を聞いた瞬間、須藤さんの表情がわずかにピクリと動く。


「西村……あぁ、あいつも死んだよ」


吐き捨てられた言葉は、あまりにも無機質だった。まるで、たった今読んだ新聞の訃報を読み上げているかのような――。西村さんのためにあんなに激昂し、記憶を対価にしてまで戦ったはずの須藤さんが、もう彼の名前すら正しく「思い出」として認識できていない。


俺は努めて冷静な声で生存確認を続けた。


「長谷川さん、石井さんは……いけますか?」


「石井君は、自殺したわ……」


長谷川さんが沈痛な面持ちで首を振る。

アイギス名古屋ラボ。共に戦い、笑い、明日を語り合った仲間たち。


新島さん、西村さん、石井さん。欠けてしまったピースはあまりにも大きく、重い。


けれど、今この場に立っているのは、死線を潜り抜け、それでも「終わり」を求めて新宿に辿り着いた、生き残りのすべてだ。


「……身内で葬式ごっこかい? 泣けるねぇ」


老魔女が、砕かれた瓦礫を足蹴にしながら嘲笑う。50層の筋肉が不気味に脈打ち、彼女の背後で新宿の大空が拍動を速めた。


「欠けた分だけ、あんたたちの死に様を派手にしてあげるよ。……さあ、全員まとめてかかってきな!」

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