無駄な記憶
「に……西村……」
足元を濡らす温かい感触。それが、さっきまで軽口を叩き合っていた後輩の命そのものである事実に、須藤の視界が歪む。何もできなかった。最も守りたかった仲間の盾にすらなれない。
須藤の脳裏に、西村との最悪だった出会いの記憶がフラッシュバックする。
(生きろ……か。……昔のあいつなら、そんなこと、口が裂けても言わなかったな……)
「若い女と遊んでんだから金あんだろ? おっさん! 出せよ!」
西村京太郎。大学3年生(2留)。
道頓堀の路地裏で、派手な服を着た中年男性を締め上げていたのは、まだアイギスに入る前の彼だった。ギャンブルと酒に溺れ、親父狩りで日銭を稼ぐどん底の生活。そんな彼に届いた「ゲーム」への招待状と、与えられた能力。
力を持った西村の暴走は加速した。あまりに目に余る蛮行に、アイギスが動く。現場に派遣されたのが、当時から冷静沈黙で鳴らした須藤だった。
「なんだよおっさん、俺に勝てんのか? その地味な能力でよぉ!」
西村が円盤を飛ばそうとした瞬間、須藤は一言も発さず、西村の顔面を巨大な水の球体で包み込んだ。
「……っ!? ご、はっ……!?」
肺から空気が漏れ、意識が遠のく。死の恐怖が脳を支配したところで、須藤は冷酷に能力を解いた。
「……っ! ここは……!?」
次に西村が目を覚ましたのは、無機質な名古屋ラボの診察台の上だった。傍らには、相変わらず表情を変えない須藤が立っている。
「名古屋ラボだ。検査の結果、お前の能力は実戦に耐えうる。……アイギスに入らないか?」
「唐突だな……。断る。誰がお前みたいなスカした野郎の下で働くかよ」
西村は鼻で笑い、あっさりと拒絶した。だが、須藤はそれすらも予測していたかのように、静かに書類を整理し始めた。
「ここにお前のこれまでの罪状をまとめた書類がある。今すぐムショにぶち込んでもいいんだぞ?」
須藤が突きつけたのは、情け容赦のない「選択肢」だった。
「く……クソが……分かったよ、やりゃあいいんだろ!」
西村が毒づきながら折れたあの日から、地獄のような特訓と任務の連続が始まった。
任務がない日は、須藤による反吐が出るほどのしごき。特訓がない日は、命を削るような実戦任務。
だが、泥にまみれた任務の終わり、二人で立ち寄る銭湯の湯気の中でだけは、組織の上下関係を忘れることができた。
「おっさん、背中流せよ」
「誰がおっさんだ。……ほら、動くな」
いつの間にか、西村は須藤を「おっさん」と呼びながらも、その背中を追い、信頼を寄せるようになっていた。道頓堀の狂犬は、須藤という無骨な男の隣で、誰よりも頼れる「後輩」へと変わっていったのだ。
「俺の……後輩を……殺してタダで済むと思うなァァァァァァ!」
須藤の絶叫が、静まり返った練馬の街を震わせた。かつての冷静沈黙な面影はどこにもない。眼前に転がる「相棒」だった肉塊と、それを見下ろす鋼鉄の怪物。その不条理に対する、魂を削り出すような怒り。
「購入券! 代償ぐらい……くれてやるよ!」
空中に浮かび上がった無機質なシステムウィンドウが、残酷な対価を突きつける。
【購入券:記憶を代償に能力を無制限解放】
記憶。それは、西村と過ごしたクソ真面目な特訓の日々であり、任務帰りに背中を流し合った銭湯の湯気の匂いであり、更生していく後輩を密かに誇らしく思った親心のような情愛だ。
それらを全て差し出す。西村がこの世に生きた証を、自分の中から消し去るということ。
須藤が躊躇した、その瞬間。
「生き残れ! 先輩!」
幻聴か、あるいは魂の残滓か。聞き慣れた生意気な声が、耳の奥で弾けた。
「……っ!」
須藤は、震える手で「確定」を叩いた。西村という存在を忘れてしまうことよりも、ここで自分が倒れ、彼の遺志が無に帰すことの方が、何万倍も耐え難かった。
「西村の仇は……俺が討つ!」
宣言した瞬間。
須藤の脳裏を、走馬灯のように駆け巡っていた西村との思い出が、音を立てて崩れ落ちていった。
道頓堀での出会い――消去。
名古屋ラボでのやり取り――消去。
銭湯で「おっさん」と呼ばれた記憶――消去。
アイギスでの記憶ーー消去。
目の前で死んでいる青年の名前すら、もはや思い出せない。なぜ自分がこれほどまでに泣き、怒り狂っているのか。その理由すら、脳のアーカイブから抹消された。
だが、**「殺さなければならない」**という純粋な殺意だけが、空っぽになった心に爆発的なエネルギーを供給する。
「……誰かは知らないが。」
「……お前を、殺す」
記憶を失い、ただ「復讐の化身」と化した須藤が、血に濡れた巨腕を長男へと叩きつけた。




