冥毒羅
「小森さん! これじゃ追いつかれます!」
春瀬さんの叫びが、激しい風圧にかき消されそうになる。背後を振り返る余裕さえないが、肌を焼くような強烈な毒気が、確実にその距離を詰めていることを告げていた。
視線を落とせば、右手の小指から始まった黒ずみは、すでに手の甲を浸食し始めている。焦燥が毒の進行を早める。
「だね……どうにかしないと……っ!」
小森さんもまた、二人の兵士に運ばれながら歯を食いしばる。腕の亀裂からは絶え間なく血液が漏れ出し、彼女の生命力を削っていた。
(……逃がさない……)
背後で、次女の冷酷な意志が形を成す。
冥毒羅の複数の蛇の頭が大きく顎を開き、その奥底で、ドス黒い液体が限界まで圧縮された。
空気を切り裂く高圧洗浄機のような音と共に、超高圧の毒液弾が、二人の背後から音速に近いスピードで撃ち出された。
「小森さん! 何か来ます!」
直感的に死を察知した春瀬さんの叫びに合わせ、二人の光の兵士が阿吽の呼吸で左右に分かれた。
直後、二人が先ほどまでいた空間を毒液の弾丸が通り抜け、背後のビルを紙細工のように貫通し、一瞬でコンクリートをドロドロの飴に変えて崩壊させた。
「わっ……!?」
爆風に煽られながら、春瀬さんと小森さんはそれぞれ別方向、崩れかけた巨大な商業施設の中へと飛び込んだ。
(どこ……行った……? 早く終わらせないと……)
冥毒羅の複数の蛇頭が、鎌首をもたげて商業施設の暗がりに蠢く。
さっきまで、暗闇の中でも爛々と光り輝いていた小森さんの兵士たちは、格好の目印だった。だが、建物に飛び込んだ直後、その光がパッと掻き消えるように消失し、次女は獲物の位置を見失った。
ドロリ、ドロリと、下半身から漏れ出す毒液が床のタイルを溶かし、不気味な音を立てる。
蛇の頭たちが、スリット状の瞳を細め、熱源やポイントの残滓を探るように左右へ振られた。しかし、入り組んだ什器や崩落した天井の影に遮られ、彼女の視界は思うように機能していない。
一方、物陰に潜み、息を殺してその様子を伺っていた春瀬さんと小森さんは、確信した。
(……見えてない。あの化け物、図体がデカすぎて、この入り組んだ中じゃ視界が極端に悪いんだ)
小森さんは、あえて光の兵士を一時的に消去することで、追跡の糸口を断っていた。腕の亀裂から漏れる微かな光さえも、自分の服で必死に抑え込んでいる。
春瀬さんは、手の甲まで広がった黒ずみの痛みに耐えながら、静かに指を動かした。
(視覚に頼ってるなら、まだチャンスはある。……小森さん、アイコンタクトで……)
二人は、この「視界の悪さ」を逆手に取った、逆転の一手を目配せだけで共有しようとしていた。
「なんだあの化け物……!」
瓦礫の陰に潜んでいたアイギスの生き残り隊員が、恐怖に耐えかねて表へ飛び出した。
だが、そのわずかな足音を「冥毒羅」の蛇頭は見逃さない。
音速でしなった毒の尾が、隊員の胸を一突きで貫通した。断末魔を上げる間もなく、隊員の体は傷口からドロドロに溶けて崩れ落ちる。
(違う……こいつじゃない……どこ、どこに隠れてる……!)
次女の心に、焦りの色が混じり始めた。
この「冥毒羅」は、ファミリーの幹部としての奥義とも呼べる変身形態だ。凄まじい破壊力と毒性を誇る反面、維持するだけで体力を爆発的に消耗する。もし制限時間を超えて変身が解ければ、一定時間は能力が完全に使用不能になる。
(……もういい、この地域一帯ごと!)
業を煮やした次女が、施設の外へ躍り出て広範囲に毒を撒き散らそうとした、その瞬間。
建物を根こそぎ吹き飛ばさんばかりの、超圧縮された突風が次女を正面から直撃した。
「なっ……!? 」
あまりの風圧に、実体を持たない毒の霧どころか、冥毒羅の巨大な体そのものがボロボロと崩れ始める。
「やっぱりだ。こいつ、この変身状態を全く使いこなせてない!」
瓦礫の隙間から、春瀬さんが鋭い視線で次女を射抜いた。
その右手の黒ずみは肘まで達しているが、彼の眼光はかつてないほど冴え渡っている。
「デカすぎて自分の風圧にも耐えられてない。体を作り直すたびに、あんたの体力はゴリゴリ削られてるはずだ!」
春瀬さんが、次女の致命的な弱点を暴き出した。
体力が尽きれば、変身は強制解除される。そうなれば、次女に待っているのは無防備な死だ。
「……う、うるさいうるさいうるさい! 黙れえぇぇっ!」
余裕を失い、咆哮を上げる次女。
その周囲で、崩れた体の一部が無理やり再構成されようとするが、その動きは明らかに鈍くなっていた。
(こうなったら……自爆して毒液を……!)
次女はもはや体の再構築を放棄し、全エネルギーを「冥毒羅」の核へと凝縮させた。膨張する毒の圧力。小森さんは咄嗟に残された兵士を春瀬さんの盾にしようと走らせるが、間に合わない。
「お前ら全員死んじゃええ!」
――爆破の轟音が町中に響き出す。
墨田の空をどす黒い爆炎が染め、高圧の毒液が雨となって町中に降り注いだ。コンクリートは瞬時に泡を吹いて溶け、周囲は地獄絵図と化す。
――音が消えた。
変身の解けた次女が、肩で息をしながら立ち上がった。能力を使い果たし、足元はおぼつかないが、その瞳には嗜虐的な悦びが宿っている。
彼女は、毒の雨に打たれて動かなくなった「死体」を確認しに歩き出した。
「お姉さん、そのままじゃ死んじゃうね」
そこには、兵士の盾が間に合わず、声を出すのも儘ならない左腕に毒液を浴びた小森さんが横たわっていた。激しい眩暈と痙攣、止まらない吐き気。溶かされた左腕の激痛で、もはや指一本動かすことすら叶わない。
次女は、春瀬さんの方を見ようともしなかった。あの至近距離で毒の豪雨を浴びて、無事であるはずがない。死んでいると確信していた。
彼女は近くの鉄筋を毒で溶かして鋭利な杭に作り変えると、それを小森さんの喉元に掲げた。
「さようなら……雑魚お姉さん」
両腕を振り上げ、トドメを刺そうとしたその瞬間。
次女の頬に、凄まじい衝撃が走った。
体がコマのように回転しながら吹き飛ばされ、次女は先ほど自分が突風を浴びた時と同じ、あるいはそれ以上の「圧倒的な力」の感覚に戦慄する。
「反省してないみたいね、クソガキ」
煤煙の中から現れたのは、冷徹な怒りを湛えた長谷川さん。
そしてその背後には、傷一つ負っていない無傷の春瀬さんが、静かに立っていた。




