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絶望

「嫌だ……お兄ちゃん……死んじゃやだぁ!」


煙幕が徐々に晴れていく中、妹が転がるように飛び出してきた。兄の亡骸をきつく抱きしめ、子供らしい、けれどこの世の終わりを嘆くような悲鳴を上げて泣きじゃくる。

 

新島さんは眉一つ動かさず、ベレッタM9の銃口をその小さな頭へと向けた。狙撃手としての冷徹さが、情を挟むことを許さない。


引き金にかけた指に力がこもる。その瞬間、泣きじゃくる妹の口から、掠れた声が漏れた。

 

「……購入券……使用……」

 

(……ッ!? 購入券!?)


新島さんの背筋に、かつてない戦慄が走った。


それは進化ではなく、このクソゲーそのものに適応できる特権。何が起きるか分からない。


「しまっ……!」


焦燥に駆られた新島さんは、指がちぎれんばかりの速さで、引き金を引き続けた。

至近距離から放たれた9mm弾が、妹の体をハチの巣にする——はずだった。

 

だが、放たれた弾丸は全て、妹の肌に触れる直前で弾かれ、無様に地面へと落ちていった。彼女の体には、銃痕どころか、かすり傷一つついていなかった。

 

妹はゆっくりと顔を上げた。


その瞳からは涙が消え、底なしの深い闇のような憎悪だけが渦巻いている。

 

「……今から10分。……お前を、絶対に許さない……!」


彼女の声は、もはや子供のものではなかった。


兄という「否定」のブレーキを失い、購入券によって自身の「肯定」の能力を限界突破させた存在――真の化け物。


今の彼女は、物理法則はおろか、因果律さえも意のままに操る。その気になれば、鋼の老魔女すら一瞬で塵に還せるほどの、絶対的な力がそこに誕生していた。


だが、その強大すぎる力と引き換えに、彼女の小さな体からはパキパキと不気味な亀裂音が聞こえ始めていた。

 

(……代償は、自身の存在そのものか)


新島さんは、冷や汗が止まらない。


残り寿命、わずか10分。その10分間、彼女は無敵の殺戮兵器として、このエリアの全てを滅ぼし尽くすだろう。

 

「……あはは。……10分あれば、お姉ちゃんを何回殺せるかな?」


「大丈夫……死んだ方がマシって思えるくらい、ぐちゃぐちゃにするから」


その幼い唇から漏れたのは、およそ中学生にも満たない子供が吐く言葉ではなかった。それほどまでに、彼女にとって兄は世界のすべてであり、唯一の光だったのだ。

 

直後、逃げ場のない空間そのものが、巨大な万力のように新島さんの体を締め上げた。


メキメキ、という嫌な音が鼓膜を震わせる。

右手に持っていた愛用のライフルが飴細工のようにひしゃげ、同時に彼女の右腕が、目に見えない巨大な手に雑巾のように絞り上げられ、根元からねじ切られた。

 

「いっ……!!!!! だぁぁぁあああ!!」


鋭利な刃物で切られるのとは違う、鈍濁とした、凄まじい「圧力」による破壊。


あまりの激痛に視界が白濁するが、過酷な拷問訓練すら耐え抜いてきた「狙撃手」としての強靭な精神が、皮肉にも彼女を失神から遠ざけていた。

 

鮮血を撒き散らしながら、新島さんは震える左腕一本で地面を這い、必死にその場から逃げ出した。


冷静な判断など、もうどこにも残っていない。ただ、この化け物から離れたいという生存本能だけが彼女を突き動かす。

 

だが、妹は逃げようとはしなかった。


まるで散歩を楽しむかのような足取りで、泣き腫らした目で地面を睨みながら、ゆっくりと後を追う。

 

「片足の方向が、真逆になる確率……100%」


パキ、という乾いた音が響いた。


走っていた新島さんの右足が、関節の構造を無視して真後ろへと回転する。痛みを極限まで引き上げた状態で、巨大なハンマーに粉砕されたような衝撃が走る。バランスを失い、彼女は無様にアスファルトへ転倒した。

 

「……っ、がはっ、あ、あぁ……!!」


さらに、妹は残酷に指を動かす。

 

「転んで肋骨が折れ、肺に突き刺さる確率……100%」


グシャリ、と胸の中で何かが砕ける感触。


体内から無数の釘を打ち込まれたような激痛が肺を貫き、口から真っ赤な泡混じりの血が溢れ出した。呼吸をするたびに、折れた骨が内臓を削り、意識が遠のきそうになる。

 

「……ねぇ、まだ3分も経ってないよ? お兄ちゃんが死んだ時の痛みに比べたら、こんなの全然足りないんだから……」


妹の体からは、さらに大きな亀裂が走り、白い破片がポロポロと崩れ落ちている。

 

自壊まで、残り7分。


「もう……やめ……」


血の海に沈み、新島さんは震える声で、ただ許しを乞うことしかできなかった。かつての勝気な狙撃手の面影はどこにもない。だが、兄を失った少女の耳に、その枯れた声は届かなかった。

 

「気絶しない確率……100%。さ、続きしよ?」


妹が指を鳴らした瞬間、遠のきかけていた意識が、残酷なほど鮮明に引き戻される。

 

逃げ場のない覚醒。妹はそこら辺に転がっていた、ナイフのように鋭いコンクリートの瓦礫を拾い上げると、まるでお気に入りのお人形を解体するような手つきで、新島さんの腹部を裂き開いた。

 

「い゛あ゛ぁぁぁぁぁぁ!!」

 

内臓をかき回される、筆舌に尽くしがたい激痛。

 

「えへへ……腸で、蝶々結び」


新島さんは薄れゆく意識の端で、地面に落ちた瓦礫を飲み込み、自ら窒息死することでこの地獄を終わらせようと試みた。だが。

 

「自殺失敗する確率……100%」


気道は塞がらず、ただ喉をズタズタに傷つけるだけに終わった。死ぬことさえ許されない。激痛に、窒息の苦しみという新たな絶望が上書きされる。

 

自壊まで、残り3分。

 

現実にはわずか7分。だが、新島さんにとっては、それは何百年もの永劫に等しい地獄だった。永遠に続くかと思われた苦しみと痛み、そして絶望。

 

「脳みそって、ぷるぷるしてるねー」


もはや肉体は、人間としての形を留めていない。


妹の手が、剥き出しになった脳へと伸びる。弄り回される思考の核。もはや言葉を紡ぐことも、まともに「痛い」と感じる機能さえも破壊され、新島さんの瞳からは光が完全に消え失せた。

 

(やっぱ……遺言書……書けばよかったなぁ……)

 

「あ……もう時間かぁ……」


妹は、最後の一仕上げとして、血塗れの瓦礫を新島さんの脳の深奥へと突き立てた。

 

10分間。


一秒たりとも途切れることのなかった地獄のような痛みが、ようやく、本当の意味で解放された。

 

自壊まで、残り0分。

 

「お兄ちゃん……今、そっちに行くね……」


少女の体は、限界を迎えた因果律に耐えきれず、サラサラとした白い砂となって崩れ落ちた。


吹き抜ける廃墟の風にさらわれ、そこには、主を失った衣服と、かつて「新島」と呼ばれた肉塊だけが残された。

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