加速
翌日、二日目のカレーで腹を満たした俺は、ラボの周囲を全力で走り込んでいた。
肺が焼けるような熱さを感じ、荒い呼吸を繰り返すたびに、昨日の隊長のあの歪な笑顔が脳裏にこびりついて離れない。
「俺がもっと強くなれば……隊長をあんな顔にさせることは……なかったのかな……」
自分の不甲斐なさが、泥のように足取りを重くする。
加速という強力な能力を持ちながら、俺はまだ誰かの背負っている荷物を半分持つことすらできない。
もっと、圧倒的な強さが欲しい。俺はトレーニングを終えると、そのまま須藤さんのもとへ向かった。
「須藤さん」
「何だ?」
「特訓内容を、須藤さんと同じにしてください」
俺は真っ直ぐに、瞳に決意を込めて訴えた。須藤さんは呆れたようにため息をつき、「やれやれ」と言わんばかりの顔で俺を見た。
「やる気があるのはいいが、少しずつ増やしてからな」
そう言って、子供をあやすかのように俺の頭を大きな手で撫でる。
(……俺、もう成人なんだけど)
苦笑いを浮かべる俺に、須藤さんは少し視線を鋭くして言葉を続けた。
「どうしても特訓内容を増やしたいなら……石井と同じやつをやるか?」
石井さん。食卓で見かけることはあっても、常に任務か特訓に出ているイメージで、ラボ内でもストイックさで知られる人だ。
「どんな特訓をしてるんですか……?」
「こっちに来い」
案内されたのは、ラボの地下にある射撃場だった。
重厚な扉を開けた瞬間、俺は自分の目を疑った。そこには、人間では成し得ないような光景が広がっていたからだ。
一人の隊員がライフルを「連射」し、放たれた弾丸を石井さんが紙一重の動きで回避し続けている。
「石井! 新島! ちょっといいか!」
須藤さんの声に、二人の動きが止まった。
「なん?」
石井さんが無機質な声で短く答える。
「呼ばれて飛んで来る新島です☆ 要件は?」
対照的に、ハイテンションでドラグノフ狙撃銃を肩に担ぎ直したのは新島さんだ。
「石井の訓練に、夕凪を混ぜてやってくれないか?」
(え? ライフル弾を避けろと……?)
目の前で火花を散らしていた超常的な光景。俺の喉が、引き攣ったように鳴った。
一歩間違えれば、ただの特訓では済まされない。そんな俺の焦りなど露知らず、あるいは完全に無視して、二人はあまりに軽いトーンで返事をする。
「良いっすよ」
石井さんが、感情の抜け落ちた声で短く応じる。
「良いよー」
新島さんも、これからピクニックにでも行くかのような、のん気な調子でライフルに新しいマガジンを装填した。
逃げ場を失った俺の肩を、須藤さんがポンと叩く。だがそれは励ましなどではなく、奈落へ突き落とす最後の一押し――
「勿論、能力は無しな? 避けれないと思った時だけ使え」
「……っ、正気ですか!?」
思わず叫んだが、須藤さんは「やれやれ」と肩をすくめて射撃場の安全圏へと下がっていく。
射線上に立つ石井さんの隣に、俺は並ばされた。
横目で見える石井さんの横顔は、彫刻のように冷たく、一切の動揺がない。対照的に、俺の心臓はドラムのように早鐘を打っている。
「……夕凪君。新島は、狙ったところには外さない。だから――」
石井さんが前を見据えたまま、低く呟いた。
「『音』を聞いてからじゃ遅い。空気の震えを読め」
「え、空気……っ」
言葉が終わるより早く、新島さんがニヤリと笑ってトリガーを引いた。
カチッ、という金属音。
次の瞬間、俺のすぐ耳元を、空気を切り裂く熱波が通り過ぎた。遅れて響く、鼓膜を震わせる轟音。
「……あ、危なっ!!」
「はい一発目ー! 次は当てるよ☆」
新島さんの指が、二弾目の引き金にかかる。
能力なしでこれに対応しろというのか。俺は全身の毛穴が逆立つような恐怖の中、強制的に「生存のための集中」へと叩き込まれた。
(集中しろ……。あの時みたいに、知覚と思考を加速させれば……!)
俺は全身の全神経を、ただ一点、脳へと集約させた。
これまでは誰かのために、守るために使おうとしてきたこの『加速』。
だが今は違う。これは、今この瞬間に俺が生き残るため、俺自身を救うためにあるのだと、冷徹に自覚した。
視界が、不自然なほど鮮明に焼き付く。
新島さんの指の筋肉がわずかに収縮し、銃口が数ミリだけ右へ動く。その微細な変化から、弾道が描く未来の線を脳が勝手に演算し始めた。
(相手の銃口からどっちを狙っているのか、どこを狙ってるのか予測しろ……)
……来た。
新島さんの指がトリガーを完全に引き絞る、そのコンマ数秒前。
――銃声が鳴るより早く、俺の体は左へと沈んでいた。
直後、さっきまで俺の心臓があった場所を、見えない衝撃波が突き抜けた。背後の防弾壁に激突した弾丸が、火花を散らす。
「……おっ?」
新島さんの驚いたような声が聞こえた。
能力を使って肉体を加速させたわけじゃない。俺は「能力を使わない状態」で、純粋な反射と予測だけで、スナイパー弾を先読みして回避してみせたのだ。
「……今のは、偶然じゃないわね」
隣で同じく弾丸を避けていた石井さんが、わずかに眉を動かした。彼女の瞳に、初めて「ただの新人」を見る以上の、鋭い関心が宿る。
「いい反応。でも、新島は一発外すと……楽しくなっちゃうタイプよ」
「あはは、バレちゃった? ケンヤ君、今のは最高だよ! ゾクゾクしちゃうね☆」
新島さんがボルトを引く音が、これまで以上に速く、鋭く響いた。
次の弾は一発じゃない。予測を上回る、予測を破壊する連射が来る。
「……来いよ。全部、見切ってやる……!」
俺の脳内は、かつてないほど冷たく、研ぎ澄まされていた。
何発もの弾丸を、俺はすべて紙一重で回避し続けていた。
正直に言えば、奇跡としか言いようがない。極限まで研ぎ澄まされた集中力が、俺の神経を細い針の穴を通すような精密さで動かしていた。
カチャリ、と新島さんのリロード音が響く。一瞬の静寂。
そして、再び狙撃が始まる――その、直前だった。
(……っ!?)
妙な感覚が脳を突き抜けた。
新島さんはまだ引き金に指をかけたばかりだというのに、虚空を、弾丸がゆっくりと飛んでいるのが見えたのだ。
陽炎のように揺らめくその「弾丸」は、音もなく俺の眉間へと向かってくる。
(……なんだ、これ……)
驚愕に目を見開いた直後、目視で確認した「それ」と全く同じ位置を、本物の弾丸が空気を切り裂いて飛んできた。
まるで、未来が先に見えたかのように。
「……あぶなっ!」
俺は吸い込まれるように体を捻り、二発目、三発目と飛んでくる未来の残像をなぞるように回避し続けた。
一発ごとに「見える」時間は長くなり、精度は増していく。
新島さんが撃つ前に、俺はもう、その弾丸がどこを通り、どこに着弾するのかを視覚として捉えていた。
「うっそ……冗談でしょ……」
新島さんの手が止まった。
弾丸を「避けている」のではない。まるでダンスのステップでも踏んでいるかのように、あらかじめ用意された安全な場所に体を置いている。その異常な光景に、新島さんは顔を引き攣らせた。
「石井……今のは、あんたの回避術とは別物だよね……?」
隣で同じく弾丸を避けていた石井さんが、無機質な視線を俺に向けた。
「……ああ。予測の域を超えている」
石井さんは短く答えると、俺の瞳の奥にある「異変」を冷静に見定めた。
「夕凪。……お前、今何が見えている」
石井さんの低い声が、遠くの方で聞こえた。
脳が焼け付くように熱い。視界の端から鼻血が垂れ、床に赤い点を作ったが、今の俺にはそれを拭う暇さえ惜しかった。
(思考の加速が……時間の概念を追い越したのか……?)
俺が見ていたのは『加速』の果てにある、確定した未来の断片だった。




