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カレー

特訓開始から10日目。


自分の能力――『加速』という現象の真理に近づきつつある実感があった。手に持ったリンゴだけを加速させると、それは猛烈な勢いで茶色く変色し、腐敗していく。

 

(リンゴの時間だけを奪っているのか……?)


もしこれを人間に使えば、一瞬で「老化」させてしまう強力な凶器になり得る。しかし、自分自身の肉体にはその反動が一切ない。


この矛盾の答えに辿り着けず、モヤモヤとした思考の渦に沈んでいた。

 

「コラ! 食べ物を無駄にしん!」


背後からの鋭い叱咤に、肩が跳ねた。

 

「長谷川さん! す、すみません……」


そこに立っていたのは、名古屋ラボの胃袋を一手に引き受けるキッチン担当、長谷川さんだ。隊員たちから「母ちゃん」と慕われ(あるいは恐れられ)ている彼女は、無惨に腐ったリンゴを見て腰に手を当てている。

 

「罰として、昼食作るの手伝ってもらうで?」

 

「分かりました……」


18名もの隊員が共同生活を送るこのラボでは、食費も調理量も桁外れだ。血気盛んな隊員たちのエネルギー源を、彼女はたった一人で支えている。

 

「ほら、さっさとキッチンに来んさいな」


促されるまま足を踏み入れたキッチンは、二人で立つには少し手狭だった。


だが、調理器具や調味料の類はミリ単位で整頓されている。長谷川さんの「戦場」としての規律が、そこにはあった。

 

「何を作るんですか?」

 

「カレーよ。夕飯の分も一緒に作るから、量多いで。覚悟しとき」


目の前には、山のように積まれたジャガイモと玉ねぎ。そして業務用サイズの肉の塊。


能力で加速させれば皮むきなんて一瞬だが、長谷川さんの前でそんな「手抜き」をすれば、それこそリンゴより先に自分が絞られそうだ。

 

(……これも特訓か)


俺は重い包丁を手に取り、まずは玉ねぎの山に挑むことにした。


玉ねぎの波状攻撃に、俺の視界はみるみるうちに涙で歪んでいった。

 

「目がっ……」

 

「あちゃあ。両端に蝋燭置かなあかんね」


料理というのは、魔物との戦いよりも地味で、それでいて容赦のない「敵」が潜んでいるらしい。長谷川さんが奥へ蝋燭を取りに行った隙を見計らい、俺は密かに『加速』を発動させた。

 

(バレなきゃセーフ……!)


超高速で動く包丁。まな板を叩く音が繋がって一つの低い振動音になる。やりすぎると怪しまれるので、ほどほどのところで減速した。戻ってきた長谷川さんは、まな板の上の山を見て目を丸くする。

 

「あれ? こんなに切ってたっけ……」

 

「……あ、いや、必死にやってたら、いつの間にか」


冷や汗を拭いながら、誤魔化すようにジャガイモと人参、そして巨大な肉の塊を捌いていく。熱した大鍋で具材を炒め、香ばしい匂いが立ち込める中で水を注ぎ、煮込んでいく。


仕上げにカレールーを割り入れたところで、長谷川さんが冷蔵庫から「それ」を取り出した。

 

(……コーヒー牛乳?)


パックから注がれる茶色い液体に、俺の顔に疑問符が浮かんだのが分かったのだろう。長谷川さんは悪戯っぽく微笑んだ。

 

「あーこれね、私の隠し味。コクが出るんよ」

 

(隠し味なのに、あっさり教えるんだな……)


そんなやり取りをしている間に、時計の針は13時を回っていた。煮込まれたスパイスの香りがラボ中に充満した頃、2階と地下から足音が響き、腹を空かせた隊員たちがワラワラと降りてくる。

 

「カレーやん!」

 

「マジ? 階段まで匂いしてたぞ」

 

「やったぜ、今日は当たり日だ」

 

「母ちゃ……はせちゃん、昼からカレーなんて珍しいね」


口々に喜びの声を上げる隊員たち。その中には、特訓帰りで泥にまみれた者や、寝起きのままふらふらと食卓につく者もいた。18人分の大所帯。活気というよりは、もはや戦場に近い賑やかさだ。


「ところで、隊長は?」


大鍋からカレーを皿によそいながら、俺はふとした疑問を長谷川さんに投げかけた。


いつもなら、美味そうな匂いが漂い始めた瞬間に「お、今日はご馳走やんけ!」と一番乗りで現れるはずの人が、影も形も見当たらない。


「変やんねぇ、隊長ならカレーの匂いを嗅げば飛んで来るのに」


長谷川さんもお玉を止めて、不思議そうに首を傾げた。


あの長野での任務以来、隊長はどこか「重い」空気を纏っている気がする。いつも通りの軽口は叩いているけれど、ふとした瞬間の視線が、どこか遠い場所を見ているような……。

でも、あの飄々とした隊長のことだ。


きっと、部屋でまたエロ本でも読みながら寝過ごしているか、あるいは単に気分が乗らないだけだろう。深く考えすぎなきゃいいけれど、俺の胸の奥には、カレーの湯気では消せない小さなざわつきが残っていた。

 

「ま、ええわ。冷めんうちにケンヤ君も食べなさいな。あんたが必死に(加速して)切った具材、みんな美味そうに食べてるで」

 

「あ、はい……いただきます」


俺は賑やかな隊員たちの輪の隅に座り、スプーンを口に運んだ。


コーヒー牛乳の隠し味が効いたカレーは、驚くほどまろやかで、少しだけ今の俺を安心させてくれる味がした。


賑やかな食堂を後にし、俺はラップのかかった皿を手に隊長の部屋へと向かった。


薄暗い地下階段を歩きながら、先ほど長谷川さんが見せた不安げな表情を思い出す。いつもなら誰よりも先に食卓へ現れるはずの人が、今日は一度も顔を見せていない。

 

「入りますよ、隊長」


返事を待たずに扉を開けると、そこにはベッドに寝転がり、一点を見つめている隊長の姿があった。その手元には、犬か猫か判別のつかない奇妙な形のキーホルダーが握られている。


俺の気配に気づくと、隊長はそれを隠すように素早くポケットへ仕舞い込んだ。


(……見ちゃいけないものだったのかもな)


俺はあえてそのことには触れなかった。触れてはいけない気がした、壊れ物のような空気が部屋に満ちていたからだ。

 

「カレー……ここに置いておきますよ」

 

「おー、ありがとなー」


返ってきたのはいつもの軽い声。だが、その響きはどこか空虚に部屋の隅へと消えていった。机に皿を置き、俺はそのまま部屋を出ようとした。静かにドアノブに手をかけた、その時。

 

「なぁ、ケンヤ君。親友を殺したことはあるか……?」


背中越しに投げられたその言葉に、思考が凍りついた。

低く、地を這うような問い。俺はゆっくりと隊長の方を振り返った。

 

「え……? 同じクラスにプレイヤーになった方はいましたけど……殺したことは……ないですね……」


西成のどん底で、命を脅かされるような瞬間は何度もあった。けれど、自分と同じ目線で笑い合っていたはずの「親友」を、この手で葬り去る。その重みを想像しただけで、言葉に詰まった。


俺の答えに、隊長は一瞬だけ悲しげに目を細めたように見えた。

 

「暗い話してまったな! すまんすまん……今の無し!」


隊長は跳ね起きると、顔をクシャッとさせていつものように笑ってみせた。


だが、その笑顔はどこか歪で、無理やり貼り付けた仮面のようだった。俺を安心させようとするその優しさが、今は何よりも痛々しく、鋭いナイフのように胸に突き刺さった。

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