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汚れた帰宅

公園の水道から流れる冷たい水で、何度も、何度も手を洗う。

爪の間に入り込んだ赤黒い汚れは、石鹸を使ってもなかなか落ちない。蛇口をひねる指が震え、サバイバルナイフの重みがポケットの中で鉛のように主張している。

 

「……言えるわけないだろ。人、殺してきたなんて」

夜風が異常に冷たく感じる。

家に帰れば、玄関の明かりがついている。扉を開ければ、そこには変わらない日常が待っている。それが今の俺には、何よりも恐ろしかった。

 

「ただいま……」


「おかえり! 遅かったわね、ご飯できてるわよ」


母さんの明るい声。食卓に並ぶ湯気の立った味噌汁とハンバーグ。

かつての俺なら、それは最高に幸せな光景だった。

けれど、肉を切るナイフの音、溢れ出すソースの赤色を見た瞬間――指先に残る、あの男の肉を貫いた生々しい感触が蘇った。

 

「……ごめん。食欲、ないんだ。寝るよ」

背中に向けられる心配そうな声を振り切り、俺は逃げるように自室へ逃げ込んだ。

暗闇の中でスマホを開く。

掲示板やSNSは、地獄のような惨状と情報の濁流で溢れていた。その中で、俺の目を引く書き込みがあった。

 

『プレイヤー集結中。主要都市の3箇所に大きな勢力が形成されつつある』

 

大阪、東京、そして札幌。

奪い合うのではなく、群れることで生き残ろうとする者たち。あるいは、弱者を効率よく狩るための巨大な「蜘蛛の巣」か。

 

「……仲間、か」

この「加速」があれば、どこかのグループで重宝されるかもしれない。

けれど、あの老魔女のような化け物が、その集団の中にいないなんて保証はどこにもないんだ。

俺は、奪い取った54ポイントと、血に汚れた135,000クレジットの残高を見つめた。

一人で戦い続けるか。それとも、誰かの背中を信じてみるか。

 

"あれ"から一週間が経ち、非情にも「生存コスト」として5ポイントが削り取られた。

あの男から奪ったポイントがあるとはいえ、身を削られる感覚に吐き気がする。この地獄は、まだ終わってくれない。

俺は13万5,000クレジットのうち、35,000クレジットを現金化した。口座に振り込まれた35万円という「血の金」を使い、俺は新千歳空港行きのチケットを手に入れた。

飛行機の機内、狭い座席で俺は神経を尖らせていた。

 

「……いる」

脳が告げている。この機内にも数人のプレイヤーが乗っている。だが、今は誰もが均衡を保ち、お互いを刺激しないように潜んでいる。この静寂が、いつ誰かの悲鳴で破られるかわからない。生きた心地のしない空の旅だった。


札幌――。

 

雪の混じる風が吹くこの街を拠点とするプレイヤー集団『三浦会』。

俺は一縷の望みをかけ、彼らの本拠地へと向かった。あの「鋼の老魔女」という災厄の情報を手土産に、協力を取り付けるために。

 

「帰れ。ガキの遊び場じゃねえんだよ」

ビルの入り口、タンクトップの大柄な男護衛に冷たくあしらわれる。力ずくで突破するか? いや、今の俺にそんな余裕はない。

希望が潰えかけたその時、自動ドアが開き、一人の男が姿を現した。

 

「……まぁ待て。そのガキ、いい目をしている」

三浦。この街を束ねる男だ。

彼は俺を値踏みするように見つめ、静かに、だが抗えない威圧感を持って告げた。

 

「条件を呑むなら、協力してやる。一つ、能力の開示。二つ、三浦会への加入だ」

ポイントの多寡も聞かず、ただ「力」と「所属」を求める合理性。

俺は疑念を抱きながらも、頷くしかなかった。今の俺には、独りで生き残る力も、あの老婆から逃げ切る術もなかったから。

 俺は、嗅ぎ慣れない冷え切った応接室で、重い視線を周囲から感じながらあの恐るべき「五十重筋マイオ・フィフティ・レイヤ」の脅威について語り始めた。

 

「……僕からの説明は、以上です」

『鋼の老魔女』の脅威を語り終えた俺の喉は、砂を噛んだように乾いていた。

三浦は無言で俺の話を聞き終えると、すぐ後ろに控えていた男に顔を寄せた。


周囲を固める岩のような大男たちとは明らかに違う。その男は、俺と同じかそれ以上に小柄で、どこか影の薄い、それでいて「生物としての格」が違うような冷たい気配を纏っていた。


二人は耳元で何かを囁き合っている。

 

(……なんて言ってるんだ? 殺す価値があるかどうかか? それとも……)

極限の緊張と、背中を伝う嫌な汗。耳鳴りが邪魔をして、彼らの密談は聞き取れない。

ただ、その小柄な男が、一瞬だけ俺に向けた視線――獲物の解体方法を思案する外科医のような冷徹な目――に、俺は蛇に睨まれた蛙のように硬直するしかなかった。

やがて話し終えた三浦が、口角を吊り上げて俺を見た。

 

「歓迎するぞ、夕凪君」

その声は親しげで、まるで年の離れた兄のような温かさすら含んでいた。だが、その双眸だけは一度も笑っていない。俺が持つ『加速』そして、あの老魔女の情報という「資産」を、余さず搾り取ろうとする強欲な光がそこにはあった。

 

「君は今日から『三浦会』の一員だ。……まずはその怯えた顔を洗ってくるといい。君の『初仕事』は、すぐそこまで来ているからな」

三浦がパチンと指を鳴らすと、さっきまで俺を拒んでいた護衛たちが、今度は「逃がさない」と言わんばかりの圧迫感で俺を取り囲んだ。

 

冷水で無理やり洗わされた肌が、冷気にさらされて痛いほどに冷える。

与えられた部屋は、コンクリートの壁に囲まれた殺風景な空間だった。布団、トイレ、シャワー。必要最低限の機能だけが、ここが「生存のための檻」であることを強調している。

 

(……マシだ。外で怯えて眠るよりは、ずっと)

俺は震える体に無理やり言い聞かせ、三浦の元へと戻った。

どんな凄惨な「掃除」を命じられるのか。あるいは、強力なプレイヤーへの特攻を命じられるのか。覚悟を決めて問いかけた俺に、三浦は拍子抜けするほど軽い動作で一枚の紙を差し出した。

 

「お前には、こいつを探してもらう」

渡されたのは、カラーコピーされた手作りのポスター。そこには、あどけない表情で笑う小さな子供の写真と『探しています』の文字。

 

「……迷子、ですか?」

思わず、拍子抜けた声が出た。

命を奪い合う蠱毒の真っ只中で、人探し。宗教団体の勧誘か、それともただの慈善事業か。あまりの落差に脳が追いつかない。

 

「そいつを見つけたら、報酬は現金で5万だ。……行けよ。時間は無限じゃねえんだ」

三浦はそれだけ言うと、俺の返事も待たずに奥へと消えていった。

残されたのは、俺と、写真の中の子供の笑顔。

5万円という報酬。三浦会がわざわざプレイヤーである俺にやらせる「迷子探し」が、ただの善意であるはずがない。

この街のどこかに、この「鍵」となる子供がいる。

俺はサバイバルナイフを隠し持ち、再び札幌の街へと足を踏み出した。

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