予兆
死の雨が、文字通り四方八方から降り注ぐ。
左をかすめたのは、鉄をも溶かす王水。
右の床に弾けたのは、一瞬でコンクリートを凍らせる液体窒素。
そして頭上からは、触れただけで肉を焼く可燃性液体と、神経を麻痺させる毒液が交錯する。
(人に撃って良い物じゃないだろ……!)
絶叫しそうになるのをこらえ、俺は『十刻縮延』を断続的に発動させた。だが、一瞬でも意識が逸れれば、そこにはニトログリセリンの爆発が待っている。
「夕凪! 感覚を研ぎ澄ませ! 能力に力を最小限入れて、能力の効果を上げろ!」
飛来する弾幕の隙間から、須藤の叱咤が飛ぶ。
無茶苦茶だ。この地獄のような弾幕の中で、冷静に「出力の微調整」なんて、どうやれって言うんだ。
「今の状況で研ぎ澄ませられるか!」
俺は悲鳴に近い声を上げた。
避けるので必死だ。一歩でも踏み外せば死。そんな状況で、脳のスイッチを繊細に切り替える余裕なんてどこにもない。
しかし、須藤の攻撃は止まらない。それどころか、俺の足元に**「粘着液」**を撒き、逃げ場を確実に奪いにくる。
「……っ、このままだと、足が止まる……!」
背後には液体窒素で凍りついた壁。前方からは王水と爆弾。
退路が消える。
逃げ場を完全に失い、網膜に焼き付くような爆炎と劇薬の飛沫が迫る。
死を覚悟した――その瞬間だった。
(あれ……能力を使ってないのに、周りが遅く見える……)
耳障りな爆音も、須藤の鋭い視線も、飛び散る液体の滴さえもが、琥珀の中に閉じ込められたように粘りつく。
脳が、3100ptという過剰なエネルギーを生存のために強制的に「調律」し始めたのだ。
自分の体も鉛のように重く、動きは鈍い。だが、動けないわけじゃない。
俺はこの奇妙な静寂を知覚し、必死にその感覚の糸をたぐり寄せ、維持し続ける。
一歩、また一歩。
降り注ぐ王水の雨を紙一重でかわし、爆弾の衝撃波が広がる隙間を縫うようにして突き進む。
「――っ!」
無我夢中で手を伸ばした。
指先が、須藤のTシャツの胸元に触れる。その瞬間、世界を覆っていた停滞が弾け飛び、凄まじい音と色彩が現実へと戻ってきた。
「やれば、できるじゃないか」
須藤の静かな、だが確かな賞賛の声が鼓膜に届く。
「はぁ……はぁ……ありがとう、ございま、s……」
言葉の最後は、形にならなかった。
極限まで張り詰めていた精神の糸がぷつりと切れ、視界が急速にブラックアウトしていく。3100ptを強引に捩じ伏せて動かした代償が、泥のような疲労となって全身を襲った。
膝から崩れ落ちる俺の体を、誰かが支えたような気がしたが、それを確かめる前に俺の意識は深い闇へと沈んでいった。
時刻は21時20分。
重たい瞼を押し上げると、そこは地下にある見慣れた自室のベッドの上だった。
「あ……れ……」
ぼんやりとした頭で辺りを見回すと、机の上には豪華なお弁当やお菓子の小包、そしてなぜかチロルチョコが一個、ぽつんと置かれていた。アイギスなりの「お疲れ様」なのだろうか。
そして、その横には椅子を引き寄せ、彫像のように座っている須藤の姿があった。
「起きたか、夕凪。……急な質問ですまないが、さっきのあれは何だ?」
須藤の問いには、純粋な好奇心と、わずかな警戒が混じっていた。
「突然、必要最低限の動きだけで避け始めたアレだ。能力を使っているにしては、君自身の動きは速くもない。だが、まるですべての軌道を先読みしているかのような……不可解な挙動だった」
俺は、あの極限状態で感じた感覚を必死に思い出しながら説明した。
能力を発動させた自覚はないのに、世界だけが粘りつくように遅くなったこと。自分の体も重かったが、確かに「見えていた」こと。
「……なるほど。無意識下での『知覚加速』か。あるいは3100ptという過剰なエネルギーが、君の脳を強制的にアップデートさせたのかもしれんな」
須藤は半分納得したような、それでいて何かを深く考察するような様子で立ち上がり、そのまま静かに部屋を後にした。
(あれは、一体なんだったんだろう……)
一人残された部屋で、俺は少し冷めたお弁当を口に運んだ。
名古屋名物の手羽先が入ったお弁当の濃い味が、空っぽの胃に染み渡る。
結局、答えは出なかった。
ただ一つ言えるのは、あの地獄のような弾幕の中で、俺の「器」は確実に形を変え始めたということだ。
俺は残りのチロルチョコを口に放り込み、洗面所で歯を磨くと、吸い込まれるように再び深い眠りへと落ちていった。




