時間と原子
カシラの先手は、周囲の空気を超高密度の防壁へと変質させ、俺という存在を空間ごと押し潰す「不可視の圧殺」だった。
だが、3180ptへと跳ね上がった俺の『十刻縮延』の前では、そんな絶望さえも鈍重な欠伸が出るほどに遅い。
もはや、俺の瞳に映る世界は完全に静止していた。
舞い上がる塵も、カシラの嘲笑も、迫り来る空気の壁も、すべてが永久に固まった琥珀の中に閉じ込められたかのようだ。
俺は重力を無視した華麗なステップでその包囲を抜け、最短距離でカシラの懐へと潜り込む。短剣を逆手に握り直し、その喉元へ一点の迷いもなく突き立てようとした。
刺さらない。刃が肉に触れる直前で、まるで磁石の同極同士が反発し合うような、目に見えない「拒絶」に阻まれた。
「……あがっ、……あ……」
静止した世界の中で、カシラの瞳だけが驚愕に揺れている。奴は原子命令で、自らの周囲にあるすべての物質に命令を下していたのだ。
『俺の肉体を破壊するな。俺に攻撃をするな』と。
「……原子命令……だっけか? アウファーは言ってたよ。……生物には命令できないってな」
俺は、刺さらない短剣を迷わず投げ捨てた。
物質が命令に従うなら、従わない「意志」を叩き込めばいい。
「これなら、防げないだろ」
拳を固める。
アウファーを失った喪失感。
この狂ったゲームへの不満。
そして、目の前の男に対する、腹の底から湧き上がる純粋な怒り。
俺は、光速にすら及ぶ速度で、その拳をカシラの肉体に叩き込み始めた。
一撃ではない。静止した時間の中で、数千、数万の打撃がカシラの全身を蹂躙する。原子の命令が物質を動かすよりも早く、俺の「怒り」という意志が、奴の肉体を物理の法則ごと粉砕していく。
カシラの顔面が歪み、肋骨が砕け、内臓が衝撃で破裂する。
だが、加速しすぎた世界では、奴は悲鳴を上げることさえ許されない。
「……アウファーの分だ。……西成に消えた全員の分だッ!!」
最後の一撃は、カシラの胸の中央。
3606ptの象徴であるその心臓に、すべての質量を乗せて叩き込んだ。
「ぐぶぁっ……!!」
凍りついていた時間が動き出した瞬間、カシラの肉体が爆ぜるような衝撃と共に吹き飛んだ。
数万発という打撃の質量が、一気に現実のものとなったのだ。奴の巨躯は背後のビルを紙細工のように貫通し、コンクリートの粉塵を撒き散らしながら瓦礫の山へと埋もれた。
内臓は破裂し、全身の骨は見る影もなく砕け散っている。誰が見ても即死――だが、カシラという男の「生」への執着は、物理法則すらも凌駕していた。
「痛ぇ……なんや、今の……何されたんや……」
瓦礫の中から、血反吐を吐き出しながらカシラが這い出てくる。
奴は、自分の体から千切れ飛んだ肉片や流れた血に目を向けた。その瞬間に奴の思考が、最悪の理屈を導き出す。
『俺の体から離れた部位は、生物やない。ただの物や』
「俺の体……元に戻れ」
原子命令が下される。飛び散った血、砕けた骨の欠片が、磁石に吸い寄せられるようにカシラの肉体へと回帰し、強引に再構築されていく。
だが、その禁忌の修復には限界があった。
「……っ、アガ、あ……!!」
激痛にのたうち回るカシラの胸元から、禍々しい紋章が浮かび上がる。
それは、奴がこの地獄のゲームを支配するために、莫大な『購入券』を費やして手に入れた、たった一度きりの保険。
【特殊能力:九死一生】
自身が「死の目前」に達した時、自動的に発動する絶対的な生存権。
破裂した内臓が強制的に鼓動を再開し、砕けた脊椎が無理やり繋ぎ合わされる。死神の鎌を首筋で止めるような、あまりにも強引な蘇生。
「……はぁっ、……はぁっ、……はぁ……!!」
カシラが立ち上がる。
その瞳は、もはや理性を失い、獣のような殺意だけでギラついていた。
「面白い……ほんまに面白いなぁ、ケンヤ! だが、これで終わりや。このチカラを使わされた以上、お前をただ殺すだけじゃあ気が済まへんぞ……!!」
カシラの周囲で、ビルを構成するすべての原子が震動を始める。
九死に一生を得たことで、奴の『原子命令』はさらに凶暴な、破壊そのものの波動へと変質していた。
静寂が支配するはずの戦場に、あの無機質なシステム音声は響かなかった。
「プレイヤーを撃破」――そのアナウンスが聞こえないということは、奴はまだ「生」の側に踏みとどまっているということだ。
立ち込める砂埃の向こう側。崩落したビルの中央で、歪な影がゆっくりと立ち上がる。
「よーやってくれたなぁ……ガキが……」
カシラの声が、地獄の底から這い上がってきたような怨嗟を帯びて響く。
あれだけの連撃を受け、内臓をブチ撒けたはずの男が立っている。もはや人間という枠組みでは捉えられない、怪物としての執念がそこにあった。
「……怪物め」
俺は震える手で短剣を握りしめ、残された全ポイントを右腕に凝縮させた。
『十刻縮延』を斬撃へと転化する。一振りで空間を断絶させるほどの超高速の斬撃を、扇状に何十発、何百発と叩き出した。不可視の刃が、大気を切り裂きカシラへと殺到する。
だが。
パチン、と。
カシラが血に濡れた指で、軽やかに音を鳴らした。
その瞬間、俺が放った渾身の斬撃たちが、まるで最初から存在しなかったかのように霧散した。
「……無効化、だと……?」
「原子に命令したんや。『そこにある振動を、熱に変換せよ』とな。お前の斬撃はただのぬるい風に変わったわ」
指先一つ。原子の配列を組み替えるという神の如き所業の前に、物理的な攻撃はすべて無意味に帰していく。
カシラの周囲では、破壊されたビルの瓦礫が再び浮遊し、奴を護る衛星のように回転を始めた。
「九死に一生を得たんや。今の俺は、さっきまでの俺とは『格』が違うんやぞ、ケンヤ!!」
カシラが一歩踏み出す。その足音が、死の宣告のように重く響く。
俺の右腕はもはや感覚がなく、3180ptという莫大なエネルギーの奔流に肉体が耐えきれず、目や耳から血が溢れ出していた。




