未完成の支配
鉄錆と死の臭いが混ざり合う『地獄の釜』。
メンブルムとの連戦で、俺の体はとっくに悲鳴を上げていた。筋肉は断裂し、骨は軋み、一呼吸置くごとに肺が焼けるように熱い。
(……一旦引く。このままじゃ、殺される……!)
本能が警鐘を鳴らし、俺は自治区の外へと背を向けようとした。だが。
「おい。どこに行くんや」
背後から突き刺さったのは、この場にいるはずのない、そして最も聞きたくない「支配者」の声だった。
【プレイヤー名: 支配核】
【保有ポイント:3606pt】
【能力:原子命令】
「……っ!」
反射的に能力を叩き込み、その場を離脱しようとした。だが、脳が下した加速の命令を、肉体が拒絶した。脚が、動かない。
「俺のメンブルム達を殺しといて、お前は逃げるつもりなんか? ……そのボロボロの体で」
カシラがゆっくりと歩を進める。
「動け……動け、俺の足……っ!」
内側から身体が崩壊していくような感覚。これまで積み重ねてきた『十刻縮延』の過負荷が、今になって泥沼のように俺を拘束していた。
「関係ない話をするが……お前はポイントが何のためにあると思う?」
カシラの唐突な問いに、俺は困惑し、荒い息を吐きながら答えた。
「……生きるため、だろ。……このゲームにおける、栄養みたいなもんだと……思う……」
「ははっ、はははは! お前さん、その様子じゃ気づいてなかったんか!」
カシラは腹の底から笑い飛ばした。
「お前さん、最初に能力を使った時より、ずっと速くなったと感じんか?」
「まさか……ポイントは……」
「そうや。ポイントは生きるために消費されるんやない。能力を『強化』するためにもあるんや」
思考が、瞬時に過去の戦いを巡る。
一瞬の隙を作るだけだった加速が、いつの間にか複数の物体を操り、意識を同期させるまでの異能へと昇華されていた。それは経験ではなく、奪い取ってきたポイントが俺の能力を無理やり「進化」させていたのだ。
「ポイントが増えれば増えるほど、出力は跳ね上がる。……だがなぁ、ケンヤ。それには致命的な欠陥があるんや」
カシラが立ち上がると、彼が踏みしめたアスファルトの原子が「ひれ伏せ」という命令に従い、波打つように沈み込んだ。
「能力が強くなれば、その分、肉体にかかる負荷も比例してデカくなる。お前さんの今の体は、強力なエンジンをボロボロの軽トラに積んどるようなもんや。一速入れるだけで、車体がバラバラになろうとしとる」
カシラが右手を軽く上げる。
それだけで周囲の「空気の原子」が超高密度に固まり、逃げ道を塞ぐ透明な壁が形成された。
「3606pt。これが俺の積み上げた『支配』の重みや。……全盛期なら俺の喉元まで届いたかもしれんが、今のそのザマじゃあ、一歩歩くことすら叶わんやろ」
絶望を煮詰めたような笑みを浮かべ、カシラが指を弾く。
「『原子命令:崩壊』」
俺の足元の地面が、砂のようにサラサラと崩れ始めた。
原子レベルで結合を解かれた、底なしの虚無。
「……死に場所を選べるほど、この世は甘ぅないで。10億のガキ」
【プレイヤー名:誘惑の根源】
【保有ポイント:0pt】
【能力:自己現実】
「……この能力は……っ!」
眼前でカシラの動きがピタリと止まった。その視線は虚空を彷徨い、何かに魅入られたように立ち尽くしている。
直後、背後から緊張の糸を弾くような、聞き覚えのある声が響いた。
「ケンヤ君!さっさと逃げるで!」
振り返ると、そこには消え入りそうな姿のまま、不敵に笑うアウファーギブが立っていた。彼の足元には、先ほど俺が屠ったはずのメンブルム、テンプテーション・ルートが、糸で操られる人形のように虚ろな目で立っている。
「アウファー……!? なんで……」
「感謝は後! メンブルムを一時的に『再起動』させて能力を使わせただけや。今のケンヤ君と自分じゃあいつに勝てまへん! ここは下がるで!」
「……っ、ありがとう」
「せやから、感謝は後や言うてるやろ! あいつのことや……すぐ戻ってくるで……!」
俺はアウファーギブに肩を貸されるようにして、崩れゆく『地獄の釜』を後にした。
能力を使わず、ただ己の脚だけで走る。全身の筋肉が断裂の悲鳴を上げ、一歩ごとに肺が潰れそうな苦しみが襲う。加速という「能力」を使わずに走るのが、これほどまでに遠く、泥臭いものだったとは。
1分、2分……3分……。
現実世界で4分が経過した。
その間、仮想現実の檻に閉じ込められたカシラにとっては、実に「4ヶ月」という永劫に近い時間が流れていたはずだ。
「はぁ、はぁ……ここまで、来れば……っ」
自治区の境界線がようやく視界に入ったその時。
背後の空気が、原子レベルで激しく震動し、巨大な衝撃波が西成の街を揺らした。
「待てぇ! ガキ共ォ!!」
空を引き裂くような咆哮。
夢の檻を力任せに喰い破り、カシラが「現実」へと帰還した。
4ヶ月もの間、偽りの平穏に足止めされていたその怒りは、もはや支配者のそれではない。
ただ獲物を逃した獣の、純粋な殺意だった。




