法の檻
アウファーギブの声が完全に消えた。
俺は一気に加速し、西成の深部――『地獄の釜』へと突き進む。
だが、進めば進むほど、この街自体が意志を持って俺を「拒絶」しているのがわかる。
アスファルトが蛇のようにのたうち回り、街灯が槍となって俺の進路を阻む。
「……チッ、一歩ごとに地形が変わってやがる」
『十刻縮延』。
加速した視界の中で、倒壊してくるビルを紙一重でかわし、爆発的に隆起する地面を蹴り飛ばして跳躍する。
しかし、これらすべてがカシラ本人による「直接的な攻撃」ではなく、ただの「命令の余波」による環境変化に過ぎないのだとしたら、本人の元に辿り着くまでにどれだけの体力を削らされるかわからない。
すると、視界が開けた。
『地獄の釜』へと続く巨大な大通り。その中央、不自然に平坦に均されたアスファルトの上に、「それ」はいた。
メンブルムの四人のうち、最初の一人。
【プレイヤー名:断罪の錘】
【保有ポイント:910pt】
【能力:変波重力】
「……ここから先は、1ミリ進むごとに自重の10倍の負荷がかかると思え」
男が顔を上げる。その瞳には、カシラへの絶対的な忠誠心と、900pt超えの強者特有の冷徹な光が宿っていた。
断罪の錘が地面に掌を沈めると、周囲のアスファルトが同心円状にひび割れ、目に見えない「層」となって空気が歪んだ。
『変波重力』。
単なる重力増強ではない。波のように変動し、踏み込むたびにベクトルが変わる「波」の重力。
(……チッ、これじゃあ『十刻縮延』で加速しても、自分の速度で体がバラバラになるぞ)
超加速とは、凄まじいG(重力加速度)との戦いだ。
通常時でさえ命を削って耐えているのに、そこに外部から10倍、100倍の不可解な重力が加われば、加速した瞬間に自らの重さで心臓が潰れ、膝が砕ける。
「どうした、ガキ。カシラに会いに来たのではないのか。……この『錘』を背負えない者に、支配核を拝む資格はない」
ジャッジ・ウェイトが指を鳴らす。
瞬間、俺の頭上の空気が「物質化」したかのように重くのしかかった。
膝をつきそうになるのを、短剣を杖代わりにして耐える。
足元のコンクリートが、俺の体重だけで蜘蛛の巣状に陥没していく。
「……10倍か。……確かに、18歳の誕生日プレゼントにしては重すぎるな」
俺は、ニヤリと笑った。
痛みと重圧で意識が飛びそうだが、不思議と心は冷静だった。
アウファーギブとの取引で温存した体力。
ここで出し惜しみして死ぬくらいなら、使い切って地獄の門を叩き壊してやる。
「……お前、自分の重力に耐えられるのか?」
俺は短剣の柄を握り直し、深呼吸をした。
肺に溜まった「重い空気」をすべて吐き出し、細胞一つ一つに加速の命令を下す。
『十刻縮延』――多重展開。
一瞬の加速ではない。
重力の「波」に合わせて、加速の出力をミリ秒単位で上下させ、重力を「相殺」する綱渡りの超加速。
「――っ!? 重力の波を読み切って、加速を合わせたのか!」
驚愕に目を見開くジャッジ・ウェイト。
俺の体は、ひび割れた大地を蹴り、重力の檻を物理的に突き破って男の懐へと滑り込んだ。
「ぐ、あっ……!?」
膝をつきそうになる。外傷はない。だが、内側から心臓を握り潰されるような感覚。
加速した世界の中で、俺の短剣が目に見えない「壁」に弾かれる。そこには、ジャッジ・ウェイトを守るように立ちはだかる、もう一人のメンブルムの姿があった。
【プレイヤー名:公正なる裁き】
【保有ポイント:981pt】
【能力:零の糾弾】
「……なに…、しやがった…」
俺は間合いを取り、短剣を構え直す。
だが、その瞬間。ドクン、と心臓の奥底を直接針で刺されたような、悍ましい激痛が走った。
脳内に、冷徹なシステムメッセージが響き渡る。
【警告:対象の行動は「刑法第199条:殺人未遂罪」
に該当します】
【零の糾弾:1カウント加算】
【累積カウント:1 / 10】
「……な、んだ……これ……」
「執行。……貴殿の振るった刃は、法を逸脱した暴力なり」
ジャスト・ジャッジが、一切の感情を排した声で告げる。
その姿は、警察官の制服を歪ませたような、歪な正義の象徴。
彼の能力は、この西成という無法地帯において、皮肉にも「日本の法律」を強制的に発動させる呪いだ。
「ここでは、我々が法だ。……貴殿が『罪』を重ねるたびに、心臓はその重みに耐えきれず、10度目の審判で停止する」
隣では、命拾いしたジャッジ・ウェイトが、歪んだ重力を再び練り上げ始めている。
「……ハッ、法律、だと? こんなクソみたいな世界で、今更何を……」
心臓が熱い。
俺が加速してこいつらを斬ろうとすれば「殺人未遂」。
こいつらの攻撃を防げば「公務執行妨害」か?
あるいは、この壁を壊したことが「器物損壊」にでもなるのか。
「動けば動くほど、死が早まるってわけか……」
俺は荒い息をつきながら、短剣の柄を握りしめた。
1446ptの俺に対し、981ptのジャスト・ジャッジと910ptのジャッジ・ウェイト。
物理的な重力と、概念的な「法の痛み」。
「……いいよ。10回以内に、お前らの法律を根こそぎ書き換えてやるよ」
心臓を灼く一回目の激痛。
カウント「1」。
俺の殺意が、この空間に定義された「法」に触れた証拠だ。
ジャスト・ジャッジは石像のように動かない。いや、動けないのだ。彼自身もまた、この厳格な法の適用範囲内にいる。不用意に俺を殴れば、それは「暴行罪」として自分に跳ね返る。
だが、彼は冷酷に言い放つ。
「無駄だ。我々に向けられたあらゆる殺意は、正当防衛として処理される。貴殿が抗えば抗うほど、心臓は法の鉄槌によって砕け散るのみ」
隣では、ジャッジ・ウェイトが重力の波を強めている。
彼らの狙いは明白だ。ウェイトの重力で俺を拘束し、俺が逃げようとしたり、抵抗したりする「行動」をすべて罪としてカウントさせ、10回以内に心停止へ追い込む。
「……ハッ、正当防衛、か。法律ってのは、いつだって力のある奴に都合よく作られてるもんだな」
俺は荒い息をつきながら、周囲を見渡した。
能力発動中、ジャスト・ジャッジは「人間」として法に縛られている。
ならば――。
(……アウファーが言ってたな。「能力を使った人間では成し得ない行動」……それが法をすり抜ける鍵だ)
日本の刑法は、人間が、人間に振るう暴力を裁くものだ。
ならば、物理法則を無視した「現象」そのものや、人間を辞めた次元の行動は、果たして裁けるのか?
「……10カウントもいらない。次の一手で、お前らの法律を『改正』してやるよ」
俺は短剣を逆手に持ち替え、あえて自分の足元の「地面」を突き刺した。
狙いは奴らじゃない。
『十刻縮延』――局所過負荷。
俺自身の体を加速させるのではなく、俺が触れている「無機物」の時間を、限界を超えて加速させる。
ドミナント・コアの『原子命令』とは違う、純粋な「時の暴走」。
「何をしている……地面を壊しても、それは器物損壊の罪に――」
「黙れ。これは暴力じゃない。ただの『物理現象』だ」
加速しすぎたアスファルトが摩擦熱でプラズマ化し、重力の波を食い破って、巨大な「噴火」となって奴らの真下から突き上げた。
これは俺が殴ったんじゃない。大地が勝手に、物理法則に従って爆発しただけだ。




