金
鉄扉が重く閉ざされる音が背後で響き、俺は完全に「日本」から切り離された。
そこは、かつての西成の面影など微塵もない、世紀末だった。
アスファルトを突き破って異常成長した極彩色の草木がビルを締め上げ、コンクリートを砂利に変えている。空気は重く、灰と、肉が焼けた脂っこい臭いが鼻腔にこびりつく。
「酷いな……」
足元には、真っ黒に焦げ、もはや人間だった形跡すら怪しい塊が転がっている。
つい数分前まで、壁越しに聞こえていた銃声や怒号、建物の崩壊音。それが、一歩足を踏み入れた途端に、ピタリと止んだ。
風の音さえしない。
あまりの静寂に、自分の心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。
(……来るな)
直感。
1000ptを超え、寿命を半分削り、五感が研ぎ澄まされた俺の細胞が、全方位からの「殺意」を感知して逆立っている。
静かすぎるんじゃない。
全員が、息を殺して俺を見ているんだ。
左右の半壊したビルの窓から、生い茂るシダ植物の影から、そしてマンホールの下から。
無数の「10億」を狙う濁った瞳が、俺の動く瞬間を、加速のタイミングを、じっと測っている。
その時。
カラン……と、空き缶が転がるような乾いた音が、静寂を切り裂いた。
それが合図だった。
「――いたぞ! 10億だッ!!」
「殺せ! ポイントごと奪い取れぇぇ!!」
一瞬で、世界が爆発した。
四方のビルの窓から、ありとあらゆる「飛び道具」が放たれる。
炎の球、氷の礫、不可視の真空刃、そして強化された弾丸。
俺はまだ、短剣を抜かない。
「……まずは、挨拶代わりか」
『十刻縮延』。
肺の空気をすべて吐き出すように集中し、俺は静止した死の雨の中へと踏み出した。
【プレイヤーと遭遇しました。】
【プレイヤー名:なし】
【保有ポイント:24pt】
【能力:地獄の炎】
【プレイヤー名:なし】
【保有ポイント:30pt】
【能力:氷柱】
【プレイヤー名:なし】
【保有ポイント:18pt】
【能力:真空層】
世界から音が消え、色彩が薄れる。
目の前に迫っていた炎の球は、火花の粉を散らしたまま空中で固まり、無数の弾丸は気流の筋を曳いたまま停止している。
俺はその「死の彫刻」の間を、ダンスでも踊るかのように軽やかにすり抜けていく。
弾丸の一粒を指先で弾き、氷の礫の軌道を指一本でずらす。
「……まずは、お前だ」
ビルの二階、割れた窓から身を乗り出し、狂喜の表情でトリガーを引いていた男。
加速した俺の世界では、彼の歓喜さえも、永遠に続く粘土細工のようだ。
俺は男の懐に滑り込み、あえて短剣は使わずに、男が持っていたアサルトライフルの銃口を、隣の窓に潜んでいた別のプレイヤーへと向け直した。
「次は、三階の『氷』使い……」
路地を駆け抜け、マンホールから飛び出そうとしていた影の頭を軽く踏み台にして、一気にビルの壁を駆け上がる。
世界が、再び動き出す。
一斉に放たれた攻撃は、俺がいたはずの「空っぽの空間」で衝突し、凄まじい爆発を起こした。
「……消えた!?」
「どこだ、10億はどこへ行った!」
混乱が広がる中、俺はビルの屋上から、眼下で狼狽えるハイエナたちを見下ろした。
手には、拾った適当な瓦礫の欠片がいくつか。
「悪いな。10億は、お前ら全員の命を合わせても買えないんだよ」
俺は瓦礫を指先で弾く。
『十刻縮延』の慣性が乗ったその石は、弾丸をも超える殺傷力を持って、ハイエナたちの頭部を正確に貫き始めた。
劈く悲鳴のような声が周りのプレイヤーが騒ぎ始め、逃げ惑っている。
「逃げろ! アイツがおるってことは『蘇りを施す者』が近くにおるぞ!」
「……アウファー?」
聞き慣れない響きに、俺は短剣を構えたまま眉を寄せた。
さっきまで「10億」と叫んで死に物狂いで突っ込んできていたハイエナたちが、蜘蛛の子を散らすように路地裏へ、瓦礫の陰へと消えていく。
彼らの顔にあるのは、俺に向けられていた「欲望」ではなく、もっと根源的な「生存本能」に基づいた恐怖だ。
「ぐるぅあ"ぁ"あ”ァ!」
喉を掻き切られたような不快な咆哮を上げ、そいつは姿を現した。
かつては人間だったのだろう。だが、全身の皮膚は腐り落ち、肥大化した筋肉が服を突き破って剥き出しになっている。
【プレイヤー名:なし】
【保有ポイント:0pt】
【能力:暴走】
「……ポイントが0。……あいつ、死んでるのか?」
本来なら、ポイントが尽きれば頭部を失って即死するはずだ。なのに、目の前の化け物は欠損した肉体を引きずりながら、生きたプレイヤー以上のプレッシャーを放っている。
「捕まったら、死ぬより酷い目に合わされるぞ!」
遠ざかるプレイヤーたちの悲鳴。
ネットの情報……東京の老魔女や大阪のカシラ、アイギスのリストにも載っていない名前。
その時、霧のように立ち込める灰の向こうから、カラン、カランと錫杖を突くような規則正しい音が聞こえてきた。
「おやおや……せっかくの『素材』を怖がって逃げるとは。大阪の衆は、相変わらず礼儀を知りまへんなぁ」
粘りつくような、それでいてどこか品のある京都弁。
現れたのは、返り血一つついていない純白の法衣を纏った男だった。
【プレイヤー名:蘇りを施す者】
【保有ポイント:843pt】
【能力:死者蘇生】
「……843」
プレイヤーの中では上位層だ。
男が指をパチンと鳴らすと、さっきの化け物がピタリと動きを止め、飼い犬のように男の足元に跪いた。
「初めまして、『歪んだ加速』さん。……あぁ、今はケンヤ君、と呼んだ方がええかな? あなたのことは、カシラから聞いておりますよ。……素晴らしい生命力や。あなたのその『寿命を削った肉体』、是非とも私のコレクションに……いや、『作品』に加えさせていただきたい」
男の背後から、さらに数体、同じような「端末が壊れた化け物」が影から這い出してきた。




