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非合法組織を立ち上げて、スローライフを楽しみたい  作者:


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第九十三話 速水祐希

 ――数時間後。データセンターの地下にあるキッチン。


 スパイシーな匂いに、和牛の芳醇な香りが重なる。ダイニングへと漂うその香りが、Black Wellのメンバー全員の胃袋を掴んで離さない。


 エプロン姿の玲子が、そわそわと待つ面々に静かに声をかけた。

 「さあ、できたわ……労いの意味も込めて、今日は和牛を使った特製カレーよ」


 刹那――ダイニングから、地鳴りにも似たどよめきが起こった。


 「「「いただきます!」」」


 ダイニングテーブルを囲む玲子たちは、一斉にスプーンを手に持ち、思い思いにカレーを口に運んだ。


 以前、玲子のカレーを口にした、ウルフパックの一人がしみじみと零す。

 「……やはり美味すぎる」


 もう一人も、大きく首を縦に振る。

 「戦地で食うレトルトとは、次元が違いすぎだ」


 イカロスが豪快にスプーンを動かし、カタリストは隣で「お姉様のカレーが世界で一番好きです……」と、パリでの緊張が嘘のように顔をほころばせている。


 玲香はといえば、銀のスプーンでカレーを宝石のように眺めながら、一口食べて目を細めた。

 「この口に広がるピリッとした多幸感は、やっぱり癖になるわ……でも、この刺激、パリの路地裏で聞いた銃声の響きに似ていて素敵だわ」


 「お姉様、食べ物に変な思い出を混ぜないでよ……マリー、今回の成果を見せてくれる?」

 『了解、玲子ちゃん!』


 テーブルの上のマリー人形が元気に返事をすると、ディスプレイにはBlack Wellの口座に刻まれた、財団から「徴収」した莫大な数字が静かに表示されていた。


 玲子はナプキンで口を拭くとクロサワに茶目っ気たっぷりにウィンクした。

 「今回の件で6億ユーロが転がり込んできたの。運用はあなたに任せるわ」


 「はっ。お任せあれ。6億円……ではなくユーロ……はっ?」

 1000億円近い金額を託されたクロサワは一瞬だけ驚愕の表情を浮かべたが、すぐに澄ました顔に戻った。


 「……それではBlack Wellの福利厚生基金として活用させていただきます。併せて、インフラ設備も増強するプランも立てておきますぞ」


 玲子は満足そうに頷いた。

 「ありがとう、クロサワ」


 次いでイカロスを見つめた。

 「あなたたちに緊急依頼の報酬を渡す。6億ユーロの内、1億ユーロは好きに使って」


 イカロスは首を横に振った。

 「……お嬢、身に余る金は身を滅ぼすんだ。一部はメンバーのためにありがたく使わせてもらうが、残りは預かってて貰えるか?」


 「あら、欲がないのね。戦闘機でも買えばいいのに……でも分かったわ。クロサワ、イカロスたちが身を滅ぼさないように運用も考えてあげて」


 クロサワは玲子に向かって一礼した。

 「こちらも任せられましたぞ」


 ――レペルトワール本部、鏡の間。

 四方を鏡に囲まれた空間で、マスターDは一糸纏わぬ姿で踊る若き男性ダンサーを、嘗め回すような視線で眺めていた。肉体の躍動、筋肉の収縮。そのすべてを芸術の部品として検分する。


 「ふむ。だいぶ良くなってきた。プリンシパルに上がれる日も近いだろう」

 マスターDが満足げに頷いたその時、胸ポケットの端末から、緊急を知らせる呼び出し音が鳴った。画面には、彼が「特別作品」と呼んで重用している青年、速水祐希の名が表示されていた。


 端末に耳を当てると、低く落ち着いた声での報告が届く。

 『マスター。エレーヌの情報を流した犯人を特定しました』

 「流石だな。すぐに行く」


 ――五分後、香水の残り香が漂う、開放感のある会議室。

 そこには若く、すらりと引き締まった長身と整った顔立ちの青年が立っていた。バレエダンサーのように手足が長く、指も細く長い。その鍛え上げたような身体とは対照的に、肌は透き通るように、うっすらと白かった。


 青年――速水祐希は音もなく一礼した。マスターDは対面の椅子に座るよう顎で促す。


 「犯人は、秘書でした。彼の私用端末に侵入し、プロメテウス財団との通信ログをすべて復元しました。これが証拠です」


 祐希がテーブルに並べた資料には、情報の売買記録が克明に刻まれていた。マスターDはそれらを一瞥もせず、背もたれに体を預けた。

 「……やはりか。祐希、ご苦労だったな。後は『影』の部隊に引き継がせる……そうだ、褒美をやろう。凜との面会許可を与える。丸一日、二人で過ごすがいい」


 祐希の端正な顔が、ほんの一瞬だけ、年相応の青年のものへと綻んだ。

 「ありがとうございます、マスター。この御恩は、これからの働きで必ず」


 「ああ、期待しているよ……何か言いたげだな?」

 祐希は一度口を(つぐ)んだが、静かに質問を口にした。

 「……それで、秘書はどうするつもりですか?」


 「裏切りには、相応の罰を与えねばならん。彼は長年よく仕えてくれたが……『快楽の首輪』を付けた上で、ジャンクヤードへ送ることに決めた」


 「そうですか……そうなると、彼はもう……」

 「お前が気にすることではないさ……さあ、凜が待っている。行ってきなさい」


 退出を促されると、祐希は再び「従順な駒」の表情に戻り、深く一礼して部屋を去った。


 一人残されたマスターDは、窓の外に広がる街並を見下ろした。

 「残る問題は玲香か……」


 ――後日。扉をノックする音が軽快に響く。

 返事を待たずに「失礼します」という声と共に扉が開いた。


 マスターDは苦虫を嚙み潰した顔を、我慢するような笑顔で玲香を迎えた。

 「ああ、玲香か。よく来てくれた。そこに座ってくれたまえ」


 玲香は羽根が落ちるような動作で、音もなくソファに腰かけた。そこには主宰に対する尊敬も敬意も一切含まれていなかった。

 「私を呼び出したのってエレーヌのことでしょ? 作品の権利は渡さないけど、好きに使っていいわ。得られた利益もね」


 「ああ、そうなんだが……」


 「どうせ、勝手に動いてとか思っているんでしょ。1023人のバレリーナを踊らせるより、私が踊った方がずっと安上がりだったでしょう? ……なら良かったじゃない」


 ここで玲香は何かを思い出したかのように、スラリとした人差し指を立てた。

 「あ、それと正解を教えてもらったんでしょう? ちゃんとボーナス報酬の二億を振り込んでおいてね。それを差し引いても莫大な利益が転がり込むんだから、これ以上の説教は勘弁してほしいわ」


 玲香は一方的にまくしたて、ふい、と澄まし顔になった。すっと立ち上がる。笑顔がはげ落ちたマスターDを、路端の石ころを見るような目つきで見下ろした。


 「……別に私をクビにしてもいいわよ。ちょっと面白いことを見つけたの。じゃあね」


 不意に玲香はニヤリと笑うと、自分の首の前で、軽く、手を横に引く。彼女はそのまま扉を開け、去っていった。


 後には、追加の苦虫を三匹ほど噛み潰した顔の、マスターDだけが残された。

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