第九十二話 エマの困惑
イカロスは玲子から詳しい経緯を聞くと、軽くため息をつく。小さく首を振ると即座に隊員たちへ視線を送り、プロの顔に戻った。
「再会の感傷に浸る時間はねえな。プロメテウスの連中は、経済的に死に体になっても、最後っ屁で何を仕掛けてくるか分からん……お嬢、バンを回してある。目的地まで、俺たちが鉄の壁を敷く……行くぞ!」
「ええ。お願いするわ」
玲子の返事と共に、ウルフパックは滑らかな動きで展開し、玲子と玲香を包み込むように安宿を後にした。
――パリ市内の重々しい石造りのビル。公証人エマ・ロランが執務室で書類を整理していると、静かだが凛としたノックの音が響いた。
「失礼します」
その声を聞いた瞬間、エマの心臓が大きく鼓動する。
忘れようとしても忘れられない、あの可憐で、どこか現実離れした少女の響き。
扉が開き、玲香が入ってきた。
その隣には、彼女とどこか似通わせた容姿を持ちながら、湖のような澄んだ雰囲気の妹の玲子。そして背後には、静かに様子を見守るカタリストと、圧倒的な威圧感を放つイカロスらウルフパックの精鋭たちが、一糸乱れぬ動きで部屋の隅へと展開した。
「こんにちは、エマさん。ちょっと手続き、し忘れていたみたいで」
玲香は、まるで散歩の途中で馴染みの店に寄っただけのような軽さで言った。
その笑みは柔らかく、愛らしく……そして、底抜けていた。
エマは椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「て、手続き……? あの、先日の挑戦は失敗したのでは? ……それに、この方たちは……?」
混乱するエマに、玲香は首を傾げ、にこりと微笑みながら一通の手紙を差し出した。
「後ろの方たちは私の護衛よ。そんなことより、私が後継者でいいのよね?」
そのあまりに傲慢で無垢な問いに、エマの思考は停止した。
「えっ……あ、あの……え……?」
玲香は困惑するエマを観察し、楽しそうに目を細めた。その表情は、仕掛けた罠に獲物がかかったのを見届ける子どものように無邪気だ。
「エレーヌさんからの、あなた宛ての手紙よ。読んでみて」
震える手で受け取った手紙を読み、エマは絶句した。
そこには、『この手紙をエマに渡した者に、すべての作品の権利を譲り渡す手続きを進めること』といった内容が書いてあった。
隣で玲子が、微かに眉をひそめて姉を見つめた後、憐憫の眼差しでエマに視線を変えた。
「はじめまして。妹の玲子です。後ろの者たちは姉の言う通り護衛です……お姉様。エマさんをあまり困らせては迷惑だわ」
「困らせてないわ。ただ、事実を確認しているだけだもの」
玲香は肩をすくめ、ダンスのステップを刻むように優雅に玲子の方へ振り向いた。
エマはようやく専門家としての顔を取り戻し、姿勢を正した。
「……失礼いたしました。確かにエレーヌの筆跡、そして彼女の遺志を確認しました。経緯はどうあれ、法的にはあなたが正当な後継者です……すぐに手続きを進めますが、この件、マスコミには公表しますか?」
「ええ、盛大にお願いしますね! 私が勝ち取った“価値”を盗もうとする輩に何度か遭遇して、とても困っていましたの」
玲香はそれだけ言うと、満足げに踵を返した。目的を果たした彼女にとって、その後の事務処理など興味の対象外なのだ。
玲子がエマに向かって、深く、そして静かに会釈した。
それに応じるように、背後のイカロスたちも一斉に深く頭を下げる。その統制された動きに、エマは息を呑んだ。
「お世話になりました……行きましょう」
玲子の指示で、一行は静かに、だが圧倒的な存在感を残して去っていった。
後に残されたのは、「エレーヌの手紙」と、エマの耳に残る、玲香の無垢な笑い声だけだった。
――日本。
プライベートジェットが滑走路に静かに着陸した。
タラップを降りた一行を待っていたのは、『シロ』と、微塵の乱れもない姿勢で立つ執事・クロサワだった。
「お帰りなさいませ、玲子様、玲香様……そしてイカロス、カタリスト。ウルフパックの皆様……車内に軽食を用意しております」
「クロサワ、ただいま。軽食は少しだけ頂くわ……あとで皆に私のカレーを振る舞いたいから」
玲子の言葉に、クロサワは深く頭を下げた。
「承知いたしました。すでにデータセンターのキッチンには、厳選したスパイスと食材を揃えてございます」
――『シロ』の車内。
後部座席には玲子とカタリスト、そして当然のような顔をして中央に陣取った玲香がいた。
「玲子、この『シロ』って車、すごいわね。見た目は地味なのに、乗り心地は最高級のラウンジみたい。私にも使わせてくれないかしら?」
玲香はサンドウィッチを頬張りながら、最高級レザーのシートを撫で回し、無邪気にはしゃいでいる。
「申し訳ないけど、それは出来ない。これはBlack Wellの移動指令塔でもあるの」
玲香はきょとんとした顔をして、何か納得したように自分の手を打った。
「じゃあ、私もあなたたちと一緒に行動すればいいわね。毎日これに乗れるもの」
玲子は思わずこめかみを押さえた。
「……お姉様。あなたにはバレリーナとしての本業があるでしょう?」
「あら、そこは私の都合を優先するから問題ないわよ。どうせ今のレペルトワールの連中は、私に逆らえないでしょうし」
その言葉に呼応するかのように、運転席のクロサワがバックミラー越しに口を開いた。
「そういえば玲香様。フランスでの発表以来、世間はその話題でもちきりですぞ。マリー嬢、モニターを映せますかな?」
『まかせてー! 世界中のトレンドをウォッチしているよ!』
後部座席の前に、小型の6面モニターが滑り出してきた。それぞれの画面には、各国のニュース番組が映し出されている。
『速報:伝説のバレリーナ・エレーヌの正当なる後継者は日本人、白坂玲香嬢!』
『エレーヌが遺した最後の跳躍の謎、ついに解明か?』
『白坂玲香、芸術界の勢力図を塗り替える“生ける伝説”へ』
助手席に座っていたイカロスが、窓の外を流れる景色を見つめたまま、ぶっきらぼうに言った。
「……姉さん、プライベートジェットで帰ってきて正解だったな。じゃなきゃ今頃、空港のロビーで記者たちにもみくちゃにされて、踊るどころじゃなかったぜ」
玲香はニュースを他人事のように眺め、ただ「カレー、楽しみね」と、これから始まる晩餐のことだけを考えて微笑んでいた。




