第九十一話 パリの攻防
――日本、深夜のプライベートハンガー。
轟音を立てるジェットエンジンの傍らで、タクティカル・ベストを締め直していたイカロスが、耳元の通信機に指を添えた。
「……お嬢。これから離陸するところだ……少しの間、待っててくれ」
クロサワの手配したプライベートジェットのタラップで、イカロスは夜の滑走路を見据える。その背後には、彼が招集した「ウルフパック」の精鋭たちが、無言で機材を運び込んでいた。
『ええ、イカロス。あなたも気を付けて。これからセーフハウスへ潜伏する』
玲子の冷静な声を聞き、イカロスの瞳に鋭い光が宿る。
「了解した……いいか、お嬢。俺たちが到着するまで、潜伏したら一歩も外に出ないでくれ。カタリスト、お前の『目』が頼りだ。お嬢と……まあ、お嬢の姉さんも、絶対に死なせるなよ」
『了解……師匠、早く来てくださいね』
「ああ、12時間以内にパリのドブネズミたちを掃除しに行ってやる……離陸するぞ」
通信が切れる。イカロスはタラップを駆け上がり、機内に待機していた部下たちに吼えた。
「野郎ども、仕事だ! パリの街で、お嬢を泣かせてる礼儀知らずに『ウルフパック』の挨拶を教えてやるぞ!」
――パリ、地下鉄の喧騒の中。
通信を終えた玲子たちは、スマホをアルミケースに入れ、電波による追跡を遮断した上で、セーフハウスを目指す。
「これで少しは時間を稼げるといいのだけれど……」
三人は夜の闇に紛れ、華やかなパリの喧噪の中にある、ひっそりとした安宿へと足を踏み入れた。
――パリ郊外の安宿の集まるとある地区。
落書きだらけの外壁と、壊れたネオンが点滅する安宿の一室に、三人は潜伏していた。
イカロスがかつて工作活動の拠点として確保していたその部屋は、外見のボロさとは裏腹に、防弾仕様の扉と独立した衛星回線を備えていた。
カタリストは、二階の錆びついた窓枠の隙間から外を監視している。その神経は、安宿の周囲をうろつく浮浪者や、不自然に低速で走る車両の「思考」を拾い上げるために限界まで研ぎ澄まされていた。
玲子は有線LANに繋いだタブレットを、テーブルの上に置く。
画面には、プロメテウス・リバティ財団の複雑な資金流用ルートが、蜘蛛の巣のように浮かび上がっていた。
「……マリー、メリー。準備はいい?」
『玲子ちゃん! メインサーバーの裏口、完全に掌握したよ』
『玲子様たちの襲撃に使われた資金の出所……面白いですね、中東の架空口座を経由した「武器密輸代金」と紐付きましたよ?』
マリーに続いたメリーの楽しげな報告に、玲子の口角がわずかに上がる。
「それはいいわね……まずは、その証拠をインターポールとフランス金融捜査局へ。タイマーは三十分後にセットして」
埃っぽいベッドに優雅に腰掛け、テレビのニュース番組をぼんやりと眺めていた玲香は、おもむろに顔を玲子に向けた。
「あら、そんなに急がなくていいのに。もっとじっくり苦しませてあげればいいじゃない」
「お姉様、これは趣味でやってるわけじゃないの……カタリスト、今から財団の資産を『洗浄』するわ。同時に彼らの口座を凍結させる……これで彼らは、暗殺者に支払う報酬すら払えなくなる」
玲子の指が画面上で踊る。
マリーを通じたメリーの超並列演算が、プロメテウス財団が長年隠し持ってきた「汚れた資産」を次々と暴き、Black Wellの隠し口座へとバイパスしていく。
「……よし。まずは五億ユーロ、着金。これは私の精神的苦痛への慰謝料ね……もう一億は、イカロスの『掃除代』として回しておいて」
その時、カタリストが鋭く息を呑んだ。
「……玲子様、来ました! 宿の正面に二台、裏口に一台……思考が『下卑た劣情』で埋め尽くされてます。プロの暗殺者ではなさそうですが……」
玲子は画面から目を離さず、冷徹に言い放った。
「構わないわ。ここに来るまでは、放っておきなさい。マリー、仕上げよ。財団の全資産凍結通知を全銀行へ一斉送信……さあ、彼らの『仕事』の価値を、今この瞬間にゼロにしてあげなさい」
安宿の入り口の扉をこじ開けようとする、複数の音が聞こえ始める。
カタリストはイカロスから譲り受けたナイフを抜き、部屋の前へと足を進めた。
「……玲子様には、指一本たりとも触れさせません」
――カタリストが覚悟を決めたその直後、切れのよい打撃音が響いた後に、急に静かになった。
漆黒のタクティカル・ヘルメットを被った集団が、まるで整列した波のように襲撃者たちを闇の底へと沈めていた。
直後、インターフォンのチャイムが鳴った。
『……お嬢、遅くなったな。掃除の時間だ』
部屋に響くのは、聞き慣れた、そして世界で一番頼もしい男の声だった。
安宿の薄暗い廊下に、規律正しく、かつ頼もしい足音が響く。
扉が開かれると、そこには埃っぽい空気を一変させるような、圧倒的な威圧感を放つ十一人の男女が整列していた。全員、玲子の無事な姿を見て、一様にほっとしている様子が見て取れた。
「イカロス、それにウルフパックのみんな……来てくれてありがとう。本当に助かったわ」
玲子が深々と頭を下げると、彼らは一糸乱れぬ敬礼を返した。
部隊の先頭に立つ男――イカロスが一歩前へ踏み出す。鋭い眼光が、玲子の無事を確認してようやく和らいだ。
「お嬢、無事でなによりだ……カタリスト、お嬢をよく守ってくれたな」
「師匠、当たり前のことをしたまでです」
不意に褒められたカタリストが、顔を赤らめながら、少女のように誇らしげにはにかむ。師匠であるイカロスからの言葉は、彼女にとって何よりの報酬だった。
すると、玲子の後ろから玲香がひょっこりと顔を出し、イカロスを見るなりパッと表情を輝かせた。
「あら、タナカじゃないの。久しぶり!」
玲香はそのままイカロスに抱きつこうと飛び出したが、イカロスはその肩を大きな手で軽く掴み、毅然と押し止めた。
「姉さんか……事前に情報共有くらい、しておいたほうが良かったんじゃないのか? ターゲットが自分だと分かっていたんだろう」
ほんの少しだけ不機嫌そうに、けれどどこか「昔から振り回されてきた」男の溜息混じりの視線を玲香に向ける。
「あら、ごめんなさい。でも、タナカが来てくれるなら、もっと派手に踊ってても良かったかしら?」
「……冗談はやめてくれ。あんたを護衛するのがどれだけ骨か、忘れたわけじゃない」




