第八十六話 開演
開演を告げるブザーの代わりに、劇場の空気そのものが重低音に『震えた』。
見上げると、天井の豪奢なモザイク画が液体のように溶け出し、漆黒の宇宙へと塗り替えられていく。プロジェクションマッピングによる視覚の簒奪だ。
ふと、玲子は肘掛けに置いた指先に、チリチリとした微かな振動を感じた。
「……揺れている? 超音波かしら」
「はい。超音波の焦点を客席に結ばせていますな」
クロサワが、揺れるティーカップを指で押さえながら冷静に分析する。
「空中を伝わる振動で物理的な感触を擬似的に生み出す、高度な触感演出です。この劇場のシステム、やはりタダモノではありませんぞ」
舞台中央。スポットライトを浴びるプリマドンナ・玲香の背後で、真っ白な壁に映し出された彼女の『影』が、本人より一瞬早く動き出した。
4人は思わず息を呑んだ。
現実の玲香はまだ静止しているのに、その影だけが、何者かに引き裂かれるような苦悶のポーズで壁を這い上がっていく。リアルタイムの動作予測と遅延投影――。現実と虚構が逆転したかのような、恐ろしくも美しい乖離がそこにあった。
「……すげえな、これ。魔法かよ」
戦場での直感を信条とするイカロスでさえ、その異常な光景に圧倒され、口を開けたまま呟いた。
玲香が天を仰ぐと、どこからともなく現れた無数の光の粒――マイクロドローンの群れが、彼女の周囲を螺旋状に舞い上がった。それは単なる電飾ではない。光の粒は意思を持つ生き物のように彼女の指先に止まり、あるいは衣装の裾をそっと持ち上げる。
「わあ……綺麗……」
カタリストの瞳に、舞い踊る光の残像が焼き付く。
玲香が跳躍した。
天井に潜む巨大ドローンから放たれた、光の妖精を模した発光ワイヤーが、彼女を優しく包み込む。
その瞬間、まるで重力が書き換えられたかのように、彼女は光の妖精たちに抱えられ、永遠とも思える滞空時間の中をゆっくりと泳いだ。
舞台上の玲香は、もはや人間ではなく、光と影の海を統べる「女神」そのものだった。
「……見事なものね」
玲子の呟きは、玲香に向けたものではなかった。
彼女の興味は、これほどのシステムを構築し、寸分の狂いもなく玲香を「神」に仕立て上げている、舞台裏の『エンジニア』に向いていた。
――カーテンコール。
割れんばかりの拍手の嵐が劇場の壁を震わせる中、玲香がゆっくりと一歩、前へ出た。指先まで神経の行き届いた、深く、完璧な礼。
その動作に合わせて浮遊していた光の粒が、役目を終えたかのように静かに消え去る。劇場はようやく、魔法が解け、“現実”へと帰っていった。
その瞬間だった。玲香が、顔を上げた。
万雷の拍手を受け、幸福に満ちたプリマドンナの微笑みを浮かべたまま――。
しかし、その視線だけが、物理的な衝撃を伴ったかのように、真っ直ぐにVIPルームを射抜いた。
玲子と正確に目が合う。
その眼差しは、ただ直線で結ばれたように玲子たちを覗いていた。
それはほんの一瞬だった。玲香の唇は一ミリも動かず、その表情は彫像のように崩れない。
けれど、その双眸だけは、妹とその「お友達」を、興味深そうに値踏みしていた。
次の瞬間、玲香は何事もなかったかのように視線を外し、再び観客へと華やかな微笑みを向けた。
拍手はさらに熱を帯び、地鳴りのように響き渡る。
「やっぱり……ただの招待で終わらなさそうね」
玲子のため息にも似た呟きに、隣で事態を察知したカタリストが、心配そうな顔で玲子を見つめた。
――公演直後の楽屋。
玲子の予感の通り、玲香から一人で楽屋に来るようにとコンシュルジェを通じて伝えられた。舞台の余熱が残る空間で、ウォームアップジャケットを羽織り、レッグウォーマーを履いた玲香は、玲子の姿を認めるなり、大輪の花が開くような笑顔を向けた。
「玲子、来てくれてありがとう。どうだった? 私の舞台は」
玲子は用意していた花束を差し出し、柔らかい微笑みで応えた。
「お姉様、言葉にできるような賛辞では足りないくらい、凄かったわ。最近のバレエは、あんなに直接的に五感を揺さぶるものなの?」
花束を受け取った玲香は、ふと肩をすくめる。
「ありがとう……レペルトワールは少し特別なのよ。普通のバレエ団は、あんな狂った真似はしないわ」
ふと、玲香は背後に立つ一人の女性へ視線を流し、軽やかに紹介した。
「こちら、今日のデュエットを踊ってくれたプリマの速水凜さん。凜さん、妹の玲子よ……私に似て、とても可愛らしいでしょう?」
「本当に可愛いわ……初めまして。凜です、よろしくね」
凜の鈴を転がすような声に合わせ、玲子は淑やかに頭を下げる。
「初めまして、玲子です。姉の玲香がお世話になっております」
玲子の挨拶に、凜は一瞬だけ、品定めするような目つきで玲子を見つめた。
「こちらこそ……でも、不思議ね」
凜は微笑みを絶やさぬまま、試すように言葉を継いだ。
「妹さん、玲香と全く同じ振る舞いをするのね」
その疑問に、玲香が楽しそうに笑い声を漏らす。
「ああ、それね」
玲香は当然のように玲子の肩に手を置き、強く引き寄せた。
「この子も私と同じなの――母から、あの“教育”を受けていたから」
凜は小さく息を呑み、深く頷いた。
「……なるほど。納得した」
その言葉に、玲子は何も返さなかった。
「凜さん、ありがとう。今日はもう休んで頂戴……妹と、少し積もる話があるの」
それはお願いではなく、有無を言わせぬ退場宣告だった。凜は一瞬だけ視線を二人に巡らせ、玲子に軽く会釈すると、吸い込まれるように楽屋を後にした。
ドアが閉まり、楽屋には静寂が落ちる。
残されたのは、嬉しそうに玲子を見つめる玲香と、どこか冷めた様子で玲香を見つめる玲子だけだった。




