第八十五話 招待
――データセンターの地下、お昼のキッチン。
赤ワインとブイヨンが煮込まれる芳醇な香りがダイニングにも満ちていた。玲子は大鍋をお玉でゆっくりとかき回しながら、湯気の向こう側にある「虹色に反射するカード」を見つめていた。
机の上に置かれた4枚のチケット。
そこには『レペルトワール 特別公演 プリマドンナ 白坂玲香・速水凜』の文字が、舞台の照明のように鮮やかに踊っている。
「お嬢……本当に、俺も行っていいのか? こんなゴツいのがバレエの会場にいたら、客が逃げ出さねえか」
イカロスが、チケットを大きな指で恐る恐るつつきながら、キッチンに声を投げた。玲子は火を止め、振り返って淡々と頷く。
「もちろん大丈夫よ。むしろぜひ一緒に来て。あなたにはタキシードを用意させるから」
クロサワは、チケットに添えられた手紙を両手で広げると、怪訝な表情で読み返していた。
《玲子。元気にしている? チケットを同封しておくから、私に会いに来なさい。あなたのお友達と一緒に――玲香》
「まさか、玲香様が我々を招待なされるとは」
「きっとBlack Wellに絡んだ何かよ……みんなでお喋りを楽しみたいなんて、可愛らしい理由は期待しない方がいいわ」
玲子が皿に盛り分けたビーフシチューからは、スパイスとワインの至福の香りが立ち上っている。
その隣で、カタリストが申し訳なさそうに、けれど隠しきれない期待に頬を緩ませていた。
「すみません……けど私、すごくワクワクしています。バレエなんて見るの、初めてで……」
「そう。それなら良かった。任務の合間の、良い骨休めになるといいけれど」
――劇場へ向かうシロの車内。防音の施された静寂の中で、玲子は膝の上のメリーとマリーをそっと撫でた。玲子の隣に座ったカタリストは、窓の外を流れる都会の夜景を、どこか緊張した面持ちで見つめている。
「メリー。お姉様と……今回の『レペルトワール』について整理しておきたい。念のためにね」
『承知いたしました――玲香様は5年前、レペルトワール旗揚げ当時からプリマドンナとして君臨。以来、一度もその座を譲ることなく、観客を魅了し続けています』
「……まあ、お姉様だものね。誰よりも美しく踊って当然よ」
玲子の声には、感心よりも、むしろ突き放したような冷たさが混じる。
『レペルトワール自体は、新進気鋭の芸術家「マスターD」が率いる新興のバレエ団です。クラシックの伝統に最新のテクノロジーを融合させた演出で、熱狂的なファンを獲得していますが……その運営資金には、奇妙な偏りが見られます』
「偏り?」
『はい。大部分が資産家の女性パトロンからの出資で構成されています。噂レベルの情報ですが、マスターDは育成した若き男性ダンサーを「作品」として育て上げ、パトロンたちへ若き白鳥として貸し出しているとのこと……人知れず消えた白鳥もいるとか。玲香様をはじめとする女性ダンサーは、その歪な実態を隠す「華々しい隠れ蓑」に過ぎません』
車内に、冷ややかな空気が走った。後部座席に同席していたイカロスが、不快そうに鼻を鳴らす。
「芸術だか何だか知らねえが、反吐が出る話だな。姉さんは、それを知ってて踊ってるのか?」
「……お姉様なら、それを知ったところで眉一つ動かさないでしょうね。彼女にとって重要なのは、自分が最も美しく輝く舞台があるかどうか、それだけだから」
玲子は深くため息をついたが、メリーの次の一言でその表情が険しくなった。
『さらに不可解な点があります。詳細な情報を得るためにレペルトワールの内部システムへの侵入を試みましたが、文字通り「隙」がありませんでした。CVE脆弱性データベースに基づくスキャンでもセキュリティホールが検出されず、その堅牢さは4Sグループの基幹システムに匹敵します』
玲子は意外そうに、膝の上の人形を見つめた。
「へぇ……ただの芸術家集団が、それほどの手練れのエンジニアを囲っているというの?」
玲子の脳裏に、一つの仮説が浮かぶ。
バレエ団は単なる表向きのポーズで、もっと歪な「何か」を隠蔽しているのではないか。
「……到着しました、お嬢様」
クロサワの静かな声と共に、シロが滑るように劇場のエントランスへと止まった。
光り輝くシャンデリア。正装したセレブリティたちの喧騒。
玲子は車を降り、そびえ立つ劇場を仰ぎ見た。
華やかなクラシック音楽が漏れ聞こえるその建物は、今や玲子の目には、未知の怪物が潜む「美しい檻」のように映っていた。
レペルトワール劇場の壮大で華美な扉をくぐると、そこには俗世の喧騒を遮断した、静謐で圧倒的な「富」の空間が広がっていた。
「うわぁ……凄いです……」
カタリストは思わず足を止め、顔を真上に向けていた。天井を埋め尽くす巨大な宗教画を思わせるモザイク画と、そこから降り注ぐ光の滝のようなクリスタル・シャンデリア。
コンシェルジュの背中を追いながら、玲子は虹色に光るチケットを指先で弄んだ。
「これ。VIPルームの招待チケットよね。クロサワ、正規に買えばいくらするものなのかしら?」
クロサワは顎に手を当て、周囲のセレブリティたちの層を冷静に観察しながら答えた。
「ふむ。この立地と設備、そして何より玲香様のプリマという価値を鑑みれば……一人当たり10万円はくだらないでしょうな。一般には出回らない、限られたパトロン専用の席です」
「一人10万円……4人で40万。お姉様ならポンと出しそうね」
「お姉様は、この高い席代の代償に何を求めてくるのかしら? まあ、だいたい察しはついてるけれどね……」
玲子の唇が、皮肉げに端を上げた。
一方、タキシードを窮屈そうに揺らすイカロスは、VIPルームへと続く回廊の角ごとに立つガードマンの視線と立ち居振る舞いを、獲物を狙う野獣の目でチェックしていた。
「お嬢、上出来なのは内装だけじゃねえな……配置されてるやつらの目が、ただのガードマンのそれじゃねえ。もしかして、さっき言ってた白鳥がらみか?」
コンシェルジュが黄金の縁取りがなされた重い扉を開く。
その先に広がるVIPルームは、舞台を最高の角度で見下ろすことができる。シャンデリアのライトが落とされた。




