第八十四話 正人とメリーゴーランド
正人は玲子のすぐ隣、極上のシルクのような赤い掛け布団に腰を下ろすと、少し離れた場所に立つ執事にも声をかける。
「クロサワ。お前も座ってみなさい。この眺めは、座ってこそ価値がある」
「……それでは。お言葉に甘えまして」
クロサワは、主人の威厳を損なわないよう正確に一人分の隙間を空け、燕尾服の裾を乱すことなく正人の隣に礼儀正しく腰を下ろした。
三人を乗せた円形ベッドは、もはや鼓動にシンクロすることなく、ただ穏やかに、優雅に回転を続ける。
「ねえ、お父様……当時の人たちは、どうしてこんな無駄なものを作ったのかしら?」
玲子はどこかぶすくれたような表情で、ゆっくりと流れていく霧の山々を眺めながら、隣の正人に疑問をぶつけた。
「ふむ……確かに、この部屋の演出を含め、無駄なものが多かった時代だ。だがな、玲子。当時の『過剰なまでの投資』が、巡り巡って今の世の中で大いに役立っている事例も沢山あるのだよ」
正人は玲子の頭を、愛おしむように撫でながら、静かに諭すような言葉を紡ぐ。
「例えば、光ファイバー網だ。当時は誰もそんな高速通信の使い道を見出せず、どこで使うんだと揶揄されていた。だが、今ではそれが、オンラインゲームや動画ストリーミング、ビデオ会議など、メディアやビジネスの神経系になった」
正人は視線を展望ガラスに向けると、遠くの山々をどこか懐かしむように眺めた。
「他には、大型火力発電所や電力網の整備。建設当時は、あまりのオーバースペックを批判されたものだ。だが、今お前たちが運用しているAIやデータセンターを支えているのは、まさにその時代に整備されたインフラ設備なんだよ」
光のシャワーでピンク色に染まった正人の横顔には、資本主義の荒波を乗り越えてきた者だけが持つ、深い知性が漂っていた。
玲子は、自分たちが今「最先端」だと思っているテクノロジーが、実は過去の「無駄」という名の土壌から咲いた花に過ぎないことを突きつけられ、尊敬とも呆れともいえない複雑な視線を父に向けた。
「……相変わらず、お父様って物知りね」
「伊達に歳は取っていないということだよ……さて、クロサワ。この『バブルの遺産』の上でいただくのに相応しい飲み物はあるかな?」
「もちろんでございます。地元の名産を活かした、冷たいリンゴジュースなどいかがでしょうか。お嬢様のお好みに合わせて用意させております」
回転するベッドの上。社会の頂点に立つ親子と一人の執事は、悪趣味なライトアップに包まれながら、妙に落ち着いた「家族の時間」を過ごしていた。
――スィートルームに降り立った玲子は、正人の手を取り、極彩色の光を放つメリーゴーランドの前へと足を進めた。
「そういえば、家族で遊園地に行ったことって……なかったわよね?」
玲子のふとした疑問に、正人は記憶を辿るようにして頷き返した。
「……ああ。お前からも玲香からも、一度もせがまれたことがなかったからな。我々には必要のない場所だと思っていたよ」
正人は木馬の首に無造作にかけられていた、最新型のVRゴーグルと骨伝導ヘッドフォンを手に取った。
「VRか。木馬に跨り、これを装着すればいいんだね?」
「ええ、そのようね……跨るの面倒だから、私はあちらの馬車にするわ」
二人がそれぞれ指定の位置に収まり、デバイスを装着した瞬間。静寂を切り裂くように、やけにノリの良い合成音声が天井から響き渡った。
『レッツ・エンジョイ・メリーゴーランド! ハブ・ア・ナイス・トリップ!』
ガタン、と微かな衝撃と共に、メリーゴーランドが緩やかに回転を始める。
視界は一変した。
そこにあった悪趣味なホテルの内装は消え去り、玲子の瞳に映ったのは、イングランドのハイランド地方を彷彿とさせる、どこまでも続く緑の丘陵地帯だった。
回転の遠心力に合わせるように、前方から冷たく清々しい風が吹き付けられる。
「なるほどね……映像と風の向きをリンクさせているのね。なかなか凝っているじゃない」
玲子がふと自分の胸元へ視線を這わせると、いつの間にか中世の貴族が纏うような、真紅のベルベットと精緻なレースをあしらった豪華なドレスに身を包んでいた。
ふと、前方を行く正人の方へゴーグルを向ける。
「お・と・う・さ・ま……?」
そこにいたのは、白馬に跨った「古臭いピエロ」が着るような、フリルと原色が過剰な貴族衣装に身を包んだ正人だった。しかし、その奇抜な格好に反して、彼は手綱を正確に捌き、抜き放った宝剣を鋭く構えていた。
地響きと共に、遥か遠くから複数の蹄の音が近づいてくる。
薄汚れた盗賊たちが、馬車に乗った玲子を目掛けて一斉に襲いかかってきた。
「……ここは、一応叫んでおくところかしらね。『きゃー』」
玲子のセリフは見事なまでの棒読みだった。
けれど、ピエロ衣装の正人は容赦なかった。正確無比な剣捌きを振るうたび、一人、また一人と盗賊たちが馬から転げ落ちていく。全ての敵を排除し、草原に静寂が戻ると同時に、メリーゴーランドはゆっくりと停止した。
正人がゴーグルを装着したまま、ひょいと軽やかに馬から降りる。
「ふむ……なるほど。絶体絶命の危機を救うことで『吊橋効果』を誘発し、カップルの親密度を上げようという魂胆か。なかなか面白い仕掛けじゃないか」
玲子も馬車から降り、ゴーグルをずらして頷いた。
「ええ。この後は、騎士様に抱きつけば正解なのかしら?」
正人はVR内の剣を肩に担ぎ直し、ゴーグルの下で玲子に柔らかな――けれどすべてを見透かしたような――視線を向けた。
「……いつものやつかい? クロサワのいない時にしなさい」
その言葉を聞いた瞬間、背筋をピンと伸ばして直立不動で控えていたクロサワが、不自然なほど素早く「あちらの設備のメンテナンス状況が気になりますな」とばかりにそっぽを向いた。
しかし、その燕尾服に包まれた肩だけは、堪えきれない笑いのせいで小刻みに震えていた。
玲子はゴーグルを完全に外し、どこか少しだけ不安げな瞳で正人を見上げた。
「どう? ……気に入ったかしら?」
正人は、先ほどまでのピエロ貴族の残像を微塵も感じさせない知的な眼差しに戻ると、満足げにスイートルームを見渡した。
「……ああ、玲子。これは使えるぞ。完全会員制にして、私の友人と知人に開放しよう。かつてのバブルの喧騒を懐かしむ御仁は、この国にはまだ腐るほどいるんだよ。きっと、若き日の熱狂を思い出しながら、麗しき婦人方とこの回転する夢に興じるだろうさ」
正人の実業家としての計算高い言葉に、玲子はホッと胸を撫で下ろした。
「そう……なら良かったわ。正直、どう使おうか悩んでいたのよ、ここ……」
その言葉を聞いた正人は、慈しむように玲子の頭にポンと手を載せた。温かいその感触に、玲子は少しだけ目を細める。
「玲子、今日は本当に楽しかったぞ……また誘ってくれ」
どこか少年のように嬉しそうな顔で、悪趣味なモザイクの光が降り注ぐ部屋を眺める父。その背後で、ようやく笑いを収めたクロサワが、静かに、けれど深く一礼した。




