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非合法組織を立ち上げて、スローライフを楽しみたい  作者:


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第八十七話 玲香のお願い

 玲香はもらったばかりの花束を無造作にテーブルへ置き、ウォームアップジャケットのジッパーを少しだけ下げた。舞台上での“プリマ”の顔が剥がれ落ち、身内だけに見せる、どこか親密で歪んだ視線が玲子を射抜く。


 「――ねえ、玲子」


 その声は、甘い吐息となって鼓膜に触れた。


 「今日はあなたにお願いがあるのよ」


 玲子は努めて冷静な微笑みを返した。

 「何かしら、お姉様? 私にできることならいいけれど」


 「お母様から聞いたわ……あなたが色々と動き始めたって」

 一呼吸おき、玲香は照準を定めたスナイパーのような表情を作った。

 「私もそこへ入れてくれないかしら? あなたの『Black Well』に」


 玲子は目を細め、ため息をつく。


 「お姉様……その、申し上げにくいんだけど。私の組織のやっていることって、例えるならひっそりと影を歩くようなものよ。光の中を歩き続けるお姉さまには、きっと似合わない」


 「だから面白いんじゃない! ずっと眩しい場所を歩き続けるのって、反吐が出るほど飽きるのよ……なら、玲子。あなたもたまには、私と一緒に、スポットライトの光を思う存分に浴びてみる? レペルトワールの入団試験なんて、私の一声でなんとでもなるんだから」


 玲子はまじまじと姉の瞳を見つめた。そこには虚無ではなく、飽和した退屈が生んだ、底なしの好奇心が渦巻いている。

 「お姉様、本気で言っているの?」

 「もちろん本気よ。どうして?」


 玲子は自分がレオタードを着て踊っている姿が、どうしても思い描けなかった。

 「遠慮しておくわ。私は影の中が心地良いのよ。組織に入りたいという話も、聞かなかったことにするわ」


 「……ふーん。まあいいわ」

 玲香は少しだけ唇を尖らせたが、すぐに不敵な、眩しい笑顔を取り戻した。

 「要するに、あなたに認められる『実績』が必要だってことね。分かりやすくていいわ」


 玲香は軽やかな足取りでドアへと向かう。

 しかし、ノブに手をかける直前、彼女は首だけをひねって振り返った。

 「今日は来てくれてありがとう……またね! 近いうちに、嫌でも会うことになると思うけれど」


 ドアが閉まる音。

 玲子は腰を上げるとその場に立ち尽くし、強引という名のヤスリで削られた胸の鼓動を抑えるように、深く息を吐いた。

 姉の言った「近いうちに」という言葉。それが、玲香自身の個人的な訪問を指すのか、それともBlack Wellに入れざるを得ない「実績」を引っ提げてなのか。


 ――玲子がレペルトワール劇場のVIPルームに座る、二週間前のこと。


 バレエ界を激震させるニュースが世界を駆け巡った。


 現代バレエの至宝、エレーヌ・ベルナールの急逝。死因は不運な自動車事故――当局は即座に「事件性なし」と結論づけたが、真の嵐はその後に巻き起こった。


 彼女の死後、公証人であるエマ・ロランから発表された、エレーヌの遺志。そこには、芸術家が最期に残した言葉としてはあまりに挑戦的で、血の匂いのする条件が記されていた。


 『私の未発表作品である「影のためのレクイエム(Requiem pour une Ombre)」を、正しい振付で踊り切った者を私の正当な後継者とみなす。その者には、私の全ての作品の権利を譲渡する。挑戦は一人につき一度。詳細は私の公証人、エマに一任する』


 この「影のためのレクイエム」は、エレーヌが晩年になって書き上げた、狂気的なまでに隠匿し続けた禁断の演目だった。


 レペルトワールの主宰(しゅさい)、マスターDは、劇団の頂点に君臨する三人のプリマドンナを招集した。会議室には、張り詰めた沈黙と、高級な香水の香りが漂っている。


 「……エレーヌ・ベルナールが亡くなった。そして彼女は、未発表作を一つ、遺した」

 マスターDの声が低く響く。


 「作品名は『Requiem pour une Ombre(影のためのレクイエム)』。公証人の発表によれば、これを“正しく”踊りきった者を後継者とし、彼女の全作品の権利を譲渡する……これだけ聞けば簡単だと思うだろう? だが、問題はこの一節だ」


 スクリーンに投影された舞踏譜の最後の一小節。そこには何も書かれておらず、音符さえも拒絶されたような空白が横たわっていた。

 「最後の跳躍。ここだけが、どうとでも解釈できてしまう。正解を外せば、後継者とは認められない」


 一人目のプリマが、震える指先で譜面をなぞった。

 「……チェロが、この瞬間に沈み込みます。ここで高く飛ぶのは、音楽への冒涜に近い。静止、あるいは重力に逆らわない着地。音楽の中に、答えはあるはずです」


 二人目、速水凜は鋭い眼差しを譜面に据えたまま言った。

 「いいえ、これはエレーヌの『絶望』よ。抗えずに堕ちるような着地こそ、最後の跳躍にふさわしいと思います」


 二人の感性がぶつかり合う中、玲香だけが、磁器のような肌に冷たい微笑を浮かべていた。


 「……解釈に委ねるのは、美学かもしれませんが、非効率です」


 二人の視線が玲香に集まる。


 「彼女の全経歴、筋肉の癖、過去のインタビュー、そして思考のパターン。すべてを多角的にシミュレーションすれば、“正解”は確率論的に確定できます」


 玲香は、楽しそうに瞳を輝かせた。

 「ちょうど、それを可能にする天才的なブレインを擁する組織に知り合いがいます――私に、依頼を出す許可をいただけませんか?」


 会議室の温度が、一気に数度下がった。

 マスターDは、玲香の瞳の奥に潜む狂気を認め、嗜虐的な笑みを漏らした。


 「ほう……死者の過去を科学的に暴き、シミュレーションで魂を解析しようというのか。面白い。渉外担当から依頼を出させよう。連絡先を渡しておけ」


 即断だった。

 同時に、マスターDは残る二人のプリマを、品定めするような目で見つめた。


 「さて……お前たちはどうする? エレーヌの挑戦を受けるか。成功すれば、富と名声、そして後継者の称号は独占だ。だが、失敗すれば――」

 彼はゆっくりと唇を吊り上げた。

 「プリマドンナの座から、降りてもらう」


 それは、栄誉を極めたバレリーナにとっての死刑宣告だった。

 玲香以外の二人は、まるで答えを探すように沈黙した。


 マスターDはそれに満足したように頷く。

 「……賢明だ。才能は刃だ。折られた刃は二度と同じように振るえないからな」


 最後に一言だけ付け足した。

 「結論は急がなくていいし、どうしても挑戦したくなったときは止めはしない」

 そう言うと、静かに立ち上がり部屋から出て行った。

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