第七十九話 一人、一円
玲子は、念を押すように、もう一度繰り返した。
「一人、一円。一円玉、二枚で買い取ってちょうだい」
「……一円ですか。分かりました、買い取りましょう」
ブルームは苦笑いしながらポケットをまさぐると、アルミの一円玉を二枚取り出し、手のひらに乗せて玲子に見せた。
「ブルームは、支払いの時に細かいお釣りをもらうのが嫌いなんですよ。だからといって小銭を常に持ち歩くのは、本末転倒だと思いませんか?」
ダストパンが肩をすくめて囃し立てる。
自分たちの誇りもノウハウもすべてを否定され、わずか二円で買い取られた二人は、もはや叫ぶことすら忘れ、絶望のあまり口をパクパクとさせることしかできなかった。
「良かったわね、二人とも……これで、櫂と陽にも会えるわよ。仲良くみんなで暮らしなさい」
玲子は、絶望に凍り付くニルとメモリに向かって、この日一番の満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、純真な少女のようでありながら、残酷な勝者のそれだった。
「私にとっては、あなたたちより、あそこに積まれているモノの方が、ずっと価値があるの。あなたたちはいらないわ」
玲子が指差した先には、人身売買取引の対価として金庫に眠っていたゴールドバーが、甲板に敷きつめた布の上にピラミッドのように積み上げられていた。朝日に反射する黄金の輝きが、薄汚れた甲板を照らし出す。
「ねえ。一人当たり、ゴールド何グラムで売ってきたのかしら? ……まあ、あなたたちの価値は、アルミ一グラムだけどね」
玲子はそう言うと、ブルームから受け取った二枚の一円玉を、ニルとメモリの鼻先に押し付けるようにして見せびらかした。巨大組織の暗部として活躍してきた彼らが、今や子供の駄菓子代にも満たない端金として定義された瞬間だった。
その時、双眼鏡で水平線を凝視していたクロサワが、静かにそれを胸元へと降ろした。彼は玲子に向かって、深々と一礼する。
「お嬢様……来たようです。乗船の準備を」
視界の先、姿を見せたのは、遠くに見える白い影。
それはスマートな威容と、豪華客船のような華やかさを併せ持つ、正人が所有するスーパーヨット『スター・オブ・ザ・シスターズ号』。
海上に浮かぶ白銀の宮殿が、ゆっくりとこちらに向かってくる。
「じゃあね、ニル、メモリ。ここでお別れね」
それだけ言うと、玲子は完全に興味を無くしたかのように二人の元を去っていく。
――スーパーヨット『スター・オブ・ザ・シスターズ号』、メインラウンジ。
白を基調とした広大なラウンジには、外の喧騒を完全に遮断する静寂と、高級なアロマの香りが満ちていた。玲子たちは、救出した二人の少女――教授の娘である美咲とヌルの孫娘を、ふかふかのソファへと案内した。
玲子は、まずは緊張で肩をすくませている美咲へ、穏やかな声をかけた。
「あなたは美咲さん……でいいのよね?」
「はい……あの、助けていただき、本当にありがとうございました……みなさんは、一体……」
震える声で問いかける美咲に、玲子は安心させるように微笑む。
「私たち、あなたのお父さんから正式に依頼を受けたのよ。もう大丈夫。ちゃんとお父さんに会わせてあげるから、安心していいわ」
その言葉に、美咲の瞳からようやく安堵の涙が溢れ出した。
――後に、教授にいたく感謝されたことで、カタリストは「心理学の家庭教師」という追加報酬を得ることになるのは、この数日後の話となる。
玲子は美咲の肩をそっと叩くと、次にもう一人の少女へ視線を向けた。
「……あなたは――ヌルの孫娘さんね?」
「はい。愛子といいます。ヌルは……あ、おじいちゃんのことですね。おじいちゃんはボイドの中では……ニルの影武者、『影』と呼ばれていました」
少女は少し寂しげに答えた。
「……私も『おじいちゃん』と呼ぶことにするわね……おじいちゃんからも、あなたを救い出してほしいと依頼を受けたの。船を降りたら、一緒におじいちゃんの所へ行きましょう。少し話があるの」
それだけ言うと、愛子の肩を美咲と同じようにそっと叩いた。
「さあ、まずは二人とも、温かいものを飲んで。ここでは誰もあなたたちを傷つけないわ」
玲子が合図を送ると、ウェイターが、銀のトレイを運んできた。
――スター・オブ・ザ・シスターズ号、アッパーデッキ。
潮風が吹き抜けるデッキの上には、ここが船の上であることを忘れさせるような、青々とした芝生と瑞々しいオリーブの林が広がっていた。玲子とカタリストは、柔らかな芝の感触を確かめるようにゆっくりと散歩を楽しんでいた。
「……お姉様。なんで船の上に林と芝生が生えているのでしょう? 私、船の概念がゲシュタルト崩壊しそうです」
カタリストが不思議そうに梢を見上げると、玲子は苦笑交じりに答えた。
「お父様の趣味よ。自然が恋しくなっても、すぐに地上に降りられないのが嫌なんですって」
「見てください、お姉様! 大きなプールもありますよ。あんなに広い海に囲まれているのに、わざわざプールで泳ぐなんて……」
「それも……多分、お父様の趣味よ。それより、カタリスト」
玲子は傍らに用意されたベンチに腰を下ろすと、少しだけ眠たげに目を細めた。
「私、少し昼寝がしたいの。あなたは自由に散策してきなさい……ここで襲いかかってくるようなバカはいないし、私一人でも大丈夫よ」
玲子のその言葉に、カタリストは護衛としての役目との間で少しだけ申し訳なさそうな顔をしたが、瞳の奥に宿る「はやる気持ち」を抑えきれなかった。
「……それでは、お言葉に甘えて。少しだけ、行ってきます!」
カタリストは玲子に対して深々とお辞儀をすると、まるで放たれた子鹿のように、軽やかな足取りで林の中へと駆け戻っていった。




